赤塚高仁ブログ「これでいいのだ!」

始発の電車に乗って

2012年08月22日

  グリーンライフ総裁の長谷川社長といっしょに、東京に行きます。

「愛工房」の体感するためです。

奇蹟の低音乾燥装置の中に入れていただきます。

 

 澤田さんと愛工房を訪ねた8月9日は、どんなに理屈で説明しようとも不可能な導きがありました。

見えない糸に操られているような・・・

出会うべくして、出会う、まさに必然、運命出会いだったのでしょう。

その日愛工房の伊藤社長もその日何故か奥さんに「今日出会う人が、愛工房の運命を変えると思う」と言われたそうです。

奥さんも、ご主人が、これまで言ったこともないようなこと言われたからビックリされたそうです。

 

 鳥が選んだ枝

     枝が待っていた鳥

 

それぞれが、完璧なタイミングで出会わされたのだと思えます。

人生で出会うべき人とは、必ず出会う

しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎず

 

 新潟へ、バイオマスの遠山社長を30社以上の仲間が訪ねて、開成さんの奇蹟のプラントを見学させていただき、今後の取り組みを具体的にカタチにしてゆく大切な日に、ワシらは、東京、板橋高島平に向かいます。

すごいスピードであらゆることが、同時進行しているようです。

いきさつを超えた、目に見えない大きな力が働いているようです。

 

 ワシの先生、糸川英夫博士は、いつもこう言っておられました。

「これまでの延長線上に未来は、ありません。

   特異点からの出発の時代になりました。得ることより、捨てることで新しい出発点に立てるでしょうね。」と

これまでの価値観や、既成概念、そして、自分勝手に創り上げた「私」という錯覚こそ、今一番捨てなければならないものなのかも知れません。

 

そんな時代に、日本という世界の灯明台とも言える国に生まれさせていただけたこと、感謝です。

 

始発の電車に乗って、東京に向かいます。

きっと新しいことが始まります。  そんな気がしてならないのです。

 

  日本の森林を守る・・・神様が宿る家が、進化するときを迎えているのでしょうか

「ありがとう」の反対は「あたりまえ」

2012年08月21日

 これまで、イスラエルという国に11回行きました

ロケット博士、糸川英夫先生の導きで初めて彼の地を訪ねたのは、24年前29歳の時でした

わが師、糸川博士は、「国があるのは、当たり前じゃないよ、国が滅びるということはどういうことかよく観ておきなさい」と

イスラエルの旅の先々で話されました

二千年前、国を失ったユダヤ人たちは世界中を流浪しました

ロシアで、ヨーロッパでひどい迫害を受けて、多くのユダヤ人が、ただユダヤ人だという理由だけで殺されました

彼らは、1948年5月14日、再びイスラエル国を建国するのですが、これは人類史上、奇蹟の出来事でしょう

 

 さて、我が祖国、日本は、建国以来2672年、有色人種の国の中で唯一植民地になったことのない国です

天皇の祈り、先輩方の御努力によって、今日も日本に生かしていただいて有難うございます

隣の国の人たちが、騒いでいますね

ところで、中華人民共和国の国歌をご存知でしょうか

 

  立上がれ!

奴隷となりたくない人々よ!

我らの血と肉をもって築こう、我らの新しき長城を

中華民族 最大の危機に際し

ひとりひとりが最期の叫びをあげるときだ

立て! 立て! 立て!

我ら万人心を一つにし

敵の砲火をついて前進しよう!

敵の砲火をついて前進しよう!

前へ! 前へ! 前へ!

 

  よいこの皆さん、その国を知りたければ、その国の国歌を知ればいいですよ。

この歌は、なんと!なんと!1935年につくられた映画の主題歌なんですね~

しかも、抗日、日本と戦う映画ですから、当然「敵」というのは、日本を指しているんですね~

 

 国が在るのは、当たり前じゃないです。

ほんのちょっと、今日は、日本に生かしていただいてありがとうございますと、感謝して歩きます。

第二のふるさと

2012年08月20日

  伊予西条に住む国士、近藤千恵子さんとはエドガーケイシーセンター会長、光田秀兄の紹介でお出会いいただきました。

数年前でしょうか、ジョイント講演会を企画してくださいました。

最初は、イエスキリストの話で呼ばれたのですが、二度目の講演会で日本の神話とやまとごころの話をしましたら千恵子さんの大和魂、スイッチオンになってしまったようです。

毎年伊勢に仲間を連れて、車で飛んで来てくれます。

毎年のように呼んでくださり、リピーターも増え、昨日の講演会には老若男女80名を超える参加者でした。有料にもかかわらず。

地道に続けて来た講演活動ですが、伊勢に来てくださる方も増え、祝日に日の丸を掲げてくださる方もふえ、建国の父、神武天皇のことも知っていただけ嬉しい限りでございます。

 

  一夜開けて、ホテルの窓の外には霊峰、石鎚山が見えます。

30年前と変わらぬ風景が目に飛びこんできます。懐かしい・・・

 

四国は、ワシの第二のふるさと、23歳から28歳までの5年間をこの地で過ごしました。

住んでいたのは、香川県高松市木太町ですが、中央官庁の営業担当でしたから、四国四県、それに運輸省の第三港湾が神戸、瀬戸大橋の建設局が岡山と尾道、とにかく動き回っていました。

ついでに、お遍路88箇所も全部廻っちゃいました。

 

  東京、九段にあった飛島建設に入社し、一週間本社で研修を受けた後、四国支店に配属になりました。125人の新入社員で二人だけ。

靖国神社に参り、必ず本社に帰って来るぞと誓ったものです。

新幹線で岡山にゆき宇野線に乗り換え、そして今はなき宇高連絡船で高松についたあの日のことを昨日のことのように覚えています。

期待と不安、心細さを上回る好奇心とやる気。

右も左も分からない四国で、よくぞ営業マンなんてやったもんだと23歳のワシを褒めてやりたいものです。

 

 JRは、汽車で電化されていませんでした。

みんなタバコ吸っていましたね。 勿論、高速道路もジェット機が離着陸できる空港もありませんでした。

瀬戸大橋が着工した年に四国にゆき、瀬戸大橋の開通とともに四国を離れ、生まれ故郷の三重に戻りました。

いつの間にか時は過ぎて、何もかもが変わったけど、四国に来ると忘れかけていた大事なことをフッと思い出します。

四つの空港は、立派に整備され、縦貫道も横断道も、そして三つの橋もすべて出来上がっています。

30年、ワシは髪が白くなり、メガネ無しでは新聞も読めない老眼のヤギ爺と呼ばれながら能書きを垂れてます。

できなくなってゆくことも増えてゆくのでしょう。

体力も確実に落ちています。

だけど、あの頃より今は、遥かに素晴らしい日々を生かしていただいています。

多くの出会いを通し、考え方を変えられ成長しています。

本当のふるさとである、次の世界に帰るその日まで、成長し続けてゆきたいものですね。

 

捨てる勇気

2012年08月19日

  糸川英夫博士の話しです。

博士の家で食事をいただいていたところ、博士がポツリと言いました。

「赤塚さん、80年生きてきてね、あなたよりはちょっと余計に勉強したと思うけど、知れば知るほど自分が本当は何にもわかっていないってことがわかりましたよ。」

 

 前例がないからやってみよう。

それが、糸川英夫博士の人生のテーマだったようです。

55歳で東京大学の教授職を捨てたのも、定年になって恩給がつくようになれば、独創力が失われてしまうからだと教えてくださいました。

すべての生物は、逆境のときだけ成長する。

それが、博士の口ぐせでした。

「あのね、赤塚さん。人はね、何かを手に入れることよりも、一度手に入れたものを捨てる方が、はるかにむつかしいのよ。 いずれ、全てを捨ててこの世を去らなければならないのだから、その訓練だと思えばいいですよ。」

戦闘機はやぶさの設計、ペンシルロケットの開発によるロケット博士の名声、東大名誉教授、一切を捨てて、常に新しい道を歩いた博士は、55歳から本を書かれ超ベストセラー「逆転の発想」を始め、亡くなる86歳までに70冊を超える著書を残されました。

10年ごとに一切を捨てて、常に新しいことに挑戦し続ける人生を貫かれました。

 

そして時は今、  全ては考え方だよ、と言われる澤田リーダー。

知れば知るほど、リーダーの中のリーダーだと思わされます。

一見強気で、人の話しなど聞かないワンマンに見えます。

けれど、一旦相手を認めれば、自分の考えを全て捨てて受け入れる素直な行動は見事としか言いようがありません。

勇気、すごいです。

本当の強さです。

自説を絶対押し通そうとする頑固さと真逆のしなやかさです。

53歳になって、怒られるの恐いです。

何故なら、澤田さんは、言動に矛盾のない稀有な人だから。

 

人生は今日が始まり。

誰にも負けない力、授かってこの世に送り出されたことを思い出します。

そして、手のひらをもらうためでなく、あげるために使いたいと願うのであります。

出逢いって、ホンマに人生の宝ですよね。

 

 

新しい出会いが、実を結ぶとき

2012年08月18日

  kさま、ご契約をいただきました。

4月29日、新聞折込のチラシを見て、セミナーに参加してくださいました。

体感ツアー、Oさま邸の構造見学にもご参加くださいました。

それまでは、同じ町に住んでいながら見知らぬ人。

人と人とが出会うのは、目的やいきさつを超えて、目に見えない力が働いているのだと思えてなりません。

それを「運命」と呼んでいいのかはわかりません。

だけど、「偶然」という言葉より、少し強いのかも知れませんね。

 

  永く住まれた家を解体し、新しい家を建てる。

人生を懸けた大きな投資をして、住まいを持つ。

ワシは、これまで25年間、営業に走り回り、「契約してください」と懇願してきました。

技術系でないワシは、モノを売るしか能がなかったのです。

しかも、子供の頃からケンカで勝ったことのない軟弱な文系男子は、学歴や能書きでショボい武装して、どうしたらケンカに負けないか考えました。

マトモな頭の持ち主なら、毎秒毎秒命懸けで仕事して、結果出して自信に変えてゆくのでしょうが、ちょっと足りないワシは、ケンカに負けないコツはケンカしないこと!と決めて誰もやってないことばかりやってきました。アホですね~

地方では、誰もやったことのなかった定期借地権もそうですね。

ロサンゼルスのデザイナーのプランを買ってもらうシステムも差別化のためでした。

平面図・立面図だけで一万ドル支払ってアメリカの一流デザイナーに描いてもらっていました。

 ランドスケープ(景観図面)は、別途5000ドルです。

それだけ先に払ってくれたお客様は、もう他社との競合あり得ません。

  ところが、10年ほど前に、一件だけ15000ドル支払ってくださったのに、そこまでで終わってしまった方がありました。桑名の方でした。

不思議でした。

でも、その謎が今年になって解けました。

澤田さんだったのです。澤田さんが、そのSさまと15分話して、それまでのワシの2年間の営業は、ひっくり返されたのでした。

すごくカッコいいデザインで、Sさまも大喜びしてくれてましたのに。

ショックでしたね。 何度も何度も関係を修復に、桑名まで走りました。

だけど、ダメでした。

今となればよくわかります。

ワシが届けたのは幻想、澤田さんが伝えたのは価値。

比べるまでもありません。

 

   様々な経験を通り、一瞬早すぎず一瞬遅すぎず、完璧なタイミングで澤田ファミリーの一員とさせていただくことになりました。

契約してください、と懇願する世界から、契約させてください、とお願いされる世界に入れられました。

「神様が宿る家」という比類なき商品を与えられたからです。

すべてのお客様が、我が社に来てくださいます。

夜討ち朝駆けなどという、エネルギーと時間と心の無駄遣いをしなくてもよくなりました。

Kさま澤田さんのプロデュースの図面、一発で気に入ってくださいました。

天才、清水かおりさんのおかげです。 

しかも、コストはお客様無料、ワシは、ロスのデザイナーの数十分の一。

 

  感謝の気持ち、決して忘れてはなりませんね。

ワシにとっては、毎日ブログを書くこと。このことが、感謝を忘れない一つの儀式とも言えましょうか。

そして、かけがえのないお客様との絆でもあるのです。

 

 

 

霊力のある果物

2012年08月17日

  マホちゃん先生のブログに桃のことが書かれてました。

ホンマに今年は、桃がさずかる年です、ワシに似てマホちゃん先生も桃が大好きでよかった。

 

 古事記で、イザナギが亡くなったイザナミを探し求めて黄泉の国まで訪ねていったとき、「みるな」の禁を破ったイザナギは腐りウジがわく変わり果てたイザナミの姿に驚いて、現世に逃げ帰ろうとします。

醜女らに追われるイザナギは、櫛の歯を折って投げたり、髪飾りを投げたりします

それらが、竹の子や山葡萄に変わって、醜女らがそれを食べている間に逃げるのです

そして、黄泉の国と現世の境に生えていた桃の実を3個投げて鬼を追い払うのですが、桃にこう言うのです

「おまえ、桃の実よ、私を助けたと同じように、この世に生きるあらゆる人々が、苦しみに流されて、悩み事に呆然となる時に助けてやってくれ」と。

そして、桃に「オホカムヅミノミコト」と名を授けたのです

 

 桃太郎が、桃から生まれて鬼退治をする物語も、ここに原点があるのですね

夏休みの良いこの皆さん、神話を読みましょうね。

日本の歴史を、年号といった記号で覚えるのではなく、民族の物語として魂に刻んでゆきたいものです。

このおじさんみたいに、変な実験ばかりしてると全体が見えなくなって、肝心なことがわからなくなっちゃいますからね

気をつけましょうね、よいこのみなさん

英霊に捧ぐ4万発のレクイエム

2012年08月16日

  諏訪湖に50万の人々が集まる。

終戦の日に、この地を訪れるのは3回目です。

花火鑑賞士でもある、親友の島村夫妻の導きで世界一の(と、ワシは勝手に思ってる)花火と出会わせてもらいました。

諏訪湖半のビジネスホテルも、この日ばかりは一人一泊25000円という世界です。

朝は、津で仕事をしていましたから、つかの間のお盆休みモードでしょうか。

7基のスターマインが、夜空を鮮やかに彩ります。

何という圧倒的なスケールでしょう、ただただ息を呑むばかりです。

圧巻は、諏訪湖ならではの水上スターマイン。

そして、フィナーレは延長2000mに及ぶナイヤガラ。

 

  ワシは、終戦の日は毎年、靖国神社に参ってました。

上京出来ないときは、三重の護国神社で英霊に感謝の想いを捧げて参りました。

諏訪湖に出発する前に、護国神社で手を合わせ、道中ラジオで戦没者慰霊の式典での陛下のお言葉を拝聴し、車を止めて正午に一分間の黙祷をします。

諏訪湖の花火大会でも、オープニングの前に短い黙祷が捧げられます。

ワシが子供の頃、天に帰った父と津の花火大会に行ったときのこと、

打ち上げ花火が空に昇ってゆくときの、ヒュルヒュルーーーという音を聞くたび父は、津の空を埋め尽くしたB29が撒いた焼夷弾が、落ちてくるときの音と一緒だといってました。

津の町が、火の海になる中、命からがら逃げ回った話を聞かせてくれました。

そのことが、今でも頭からはなれないのです。

ドンドンと破裂する花火が、爆弾だったらと思うと、この時代に生まれたことを幸せに思わないではいられません。

67年前は、この国に雨のように爆弾が降っていたのです。

320万人もの命が奪われた戦争は、もう二度とゴメンです。

しかし、国を護るために命を捧げて下さった、英霊の御霊に感謝するのは日本人として当たり前のことと思うのですが、ちがいますか?

よその国の領土に勝手に乗り込んでくる大統領って、放って置いていいのでしょうかね?

 

 終戦の日に打ち上げられる4万発の花火は、天からこの国を護ってくださっている英霊の御霊に届ける、鎮魂歌、レクイエムだと思え、しばしば正座して手を合わせるワシなのです。

「あんた、正座したら後ろの人の迷惑になるやんかーー」ってクレームつける寛子さん、こういう想いがあったんだよ、キミ

 

 

船井勝仁さん

2012年08月15日

       そうだ、諸君、新しい時代はもう来たのだ。

     この野原のなかにまもななく千人の天才がいっしょに、お互いに尊敬し合いながら、

     めいめいの仕事をやっていくだろう。(宮沢賢治「ポラーノの広場」)

 

  ずっと前から船井幸雄さんの本を読み続けています。

20年も前に作った会社の基本方針を

    「信頼されること、それに応えること。

      一、素直であること

      一、プラス発想であること

      一、勉強好きであること 」

と、したのも船井幸雄さんの影響です。

その息子さんである、勝仁さんとは、京都に在る中村菌さんでお出会いいただいていました。 ずううううっと前のことでした。

その後、再会したのは、なんと秋山木工の職人終了式のときのこと、不思議でした。

でも、もっと不思議なのは、勝仁さんが「赤塚社長、山元加津子さんの映画に出ておられましたね。」と覚えていてくださって、声をかけてくれたこと。

ワシは、人の事をその人のまわりのステイタスで評価する癖があります。

それだから、あの船井幸雄さんの息子、船井総研、本を出してる有名人・・・外側の評価で勝仁さんを見ていたようです。

 

 去年の6月、初めて住環境の勉強会に出席した時、澤田升男というリーダーに出会いました。

そのときに船井勝仁さんもおられて、スピーチをされました。

素晴らしい講話で、さすがだなぁと思わされたのを覚えています。

住環境の勉強会には、いつも勝仁さんがおられました。

生体エネルギーのことだから、来ておられるのだろう・・・くらいに思っていました。

しかし、懇親会では、勝仁さん、常に澤田さんのそばにおり、酔っ払うと澤田さん以上に危険な匂いを醸し出していて、あれっと思ったのでした。

 

 先日、澤田さんと東京で飲んでました。

いきなり澤田さん「カツヒト呼ぼう!!」って電話して、夜遅く・・「来られなかったら、俺がそっちにいくぞ」ってヤ◎ザですか(笑)

勝仁さん、やって来られて話しました。

勝仁さんも「赤塚さんが、澤田ファミリーのメンバーになるなんて信じられないですよ」って言ってました。

カラオケも行きました。 勝仁さんも歌いました。

いろんな話、いっぱいしました。

その日、真夜中にお別れするときの握手に込められた勝仁さんの命が好きだった。

帰ってすぐ、勝仁さんの本を取り寄せて読みました。

ビックリしました。 素晴らしい本でした。

ここ何年間に読んだ本のなかで、ここまで深く心に響いたものは無かったように思えます。

もう一度読みたいと思う本に出会うために、ワシは多くの本を読みます。

そんな本に出会えたとき、善き友との出会いのような嬉しさがあるのが、読書の醍醐味でしょうか。

 

 澤田リーダーは、一切人を外側で評価しません。

ときどき行儀の悪い、やんちゃなリーダーですが、人であれモノであれ本質を見抜き、価値を見出す天才です。

「俺は、勝仁が大好きだよ、こいつ魂あるもん、心あるもん」 酔うにつれ勝仁さんに触る澤田リーダーはホモかと思ってしまいそうでしたが、そうではなかったのですわ。

船井勝仁さんが、新しい時代を導く、紛れも無いリーダーだからだとようやくわかったのです、ワシ。

 

 

 

 

 

  

嬉しいメールが届きました

2012年08月14日

  ホームページのお問い合わせに一通のメールが届きました。

いつものお問い合わせとは、なんだか感じが違います。

横浜にお住まいの女性、Sさま、。

読みすすめるうちに、心のなかに涼やかな風が吹いてきました・・・

 

 「はじめまして。

ネットサーフィンしていてこちらのHPに辿り着きました。自然素材を使った住めば済むほど元気になる家ということで、内容を読ませていただきました。

実は私も4年前に家作りを致しました。

その時に、それまで調べてきたことのすべてをできる限り盛り込もうと思いました。

その結果がビニールクロスを使わないことでありホルムアルデヒドを少しでも抑えるための素材選びであり生体エネルギーの応用でありセルロースファイバーであり珪藻土の壁であり・・

となりました。

御社のHPを拝見していて、やはり同じポリシーで同じものに着目されていらっしゃることがわかり、懐かしさと驚きを感じてメールを差し上げた次第です。

熊野の国産材を使うことから始まり、床もフローリング材を使わずに天然木で米ぬかの天然ワックスを自分で丁寧に塗り込んだり、家の内部の木部にはドイツの安全な塗料を自分で大工さんと語り合いながら塗り込んだり・・

そんな楽しい日々を思い出しました。

作っている間があまりにも楽しくて、完成した時には「もうこの楽しみがおしまいか。。」とちょっとがっかりするほど楽しみました。

もちろん、以来快適な空間で毎日を過ごしております。

すべてお任せで価格だけを考える家つくりも、こうしてこだわって多少の費用がかかっても満足を得る家つくりも確かに同じく家は建ちますが、その内部のエネルギーには格段の差があるような気がいたします。

生体エネルギー水は珪藻土に入れる水や紙の壁紙を貼る糊を薄めるときに使いましたが、そんな見えないエネルギーに包まれていることも、自己満足と言われればそれまでですが、心地良さには代えられないものがありますね。

微細な人の感覚は鈍らせることも簡単ですが、できる限り大切に温存し、さらには研ぎ澄ませていきたいものだと思います。

長くなりましたが、そんな家つくりを実践されている赤塚様に尊敬をこめて、遠く横浜から心からのエールを送らせていただきます。

一人でも多くの方に本当にご満足する家をご提供下さいますように。

 

突然のメール大変失礼いたしました。」

 

  こうして心と心がつながり、触れ合う世界、ネットの世界は、ともすると無機質な情の通わぬ危険な落とし穴もあります。、

でも、どんな手段も結局は、心ですね。 Sさま、ありがとうございます。

「神様が宿る家」遍く、この国に伝道して参ります。

すべては住まう方の笑顔と健康のために。

 

明治天皇崩御100年

2012年08月13日

   大政奉還、武士の世の中から近代日本へと導いた偉大な天皇。

天に帰ってゆかれて、今年で100年を迎えます。

明治天皇は、強烈な個性の持ち主でいらっしゃったようで、重臣たちの記録から、そのお人柄がうかがえます。

明治天皇は、能が大好き、写真が嫌い、お風呂も嫌いで、大酒飲みだったそうです。

生涯で、10万首の和歌をお詠みになりました。

立憲君主国の君主としての義務感を強くお持ちになっておられながら、ご自身の業績や、評価には全く無関心でした。

 

 国会には必ず臨御なさり、熱心に閣議に耳を傾けるも、一切御発言はなかったといいます。

それでも、天皇が凛としてお座りになっていらっしゃることで、どれほど議員たちが緊張感を持って国のことに取り組んだことでしょう。

そんな空気感のなかで、大日本帝国憲法の草案も審議されたのですね。

 

 明治天皇は、宮殿での儀式を洋式に変えるなど、西洋文明を積極的に取り入れた反面、忘れてはならない大和魂のために教育勅語を発布されました。

日本の伝統を尊重することに尽力されました。

日清戦争の際には、明治天皇は宮廷費を削減して戦艦を作る費用にあてるように指示なさりながらも、宮中祭祀や皇祖皇宗を祭る費用の削減は一切お許しになりませんでした。

祭祀、先祖供養、親孝行を何より大切になさり、教育勅語をみずから率先して実践しておられたのでした。

 明治天皇の贅沢嫌いは徹底していたそうです。

軍服や靴も修理を命ぜられるのみで、決して新調をお許しになりませんでした。

天皇の心は、常に国民とともにありました。

生涯を通して、いかなる苦痛や体の不調を訴えたことがなかったといいます。

  また、明治天皇は大の戦争嫌いでした。

日清、日露 いずれの戦争にも反対なさり、華々しい戦果が伝えられても表情一つ変えられないばかりか、日露戦争の旅順攻略のときには、敵の将軍ステッセルの名誉を損なわないように命じられました。

 

  よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ

 

この御製に、明治天皇のお心があらわているのではないでしょうか。

 

明治は、国際的にも優秀な政治家が、命を懸けて国のために政治をしました。

明治天皇は、重臣の能力を見抜き、的確に信任激励して勇気と力を与えました。

 

 明治天皇なくして、我が国の近代化はありませんでしたね。

明治天皇の願い、教育勅語を取り戻したいものです。