赤塚高仁ブログ

わたしはすでにわたし

2018.10.09

新しい一週間が始まります。
秋晴れのステキな空の下、名古屋に向かっています。
「住めば住むほど元気になる家」
新築工事の打ち合わせです。

近鉄特急の中で思っています。

「わたしは何者か?」

エゴを自己と勘違いしたまま、
無自覚で生きている人は、
自分が何者か答えるのです。

「私の名前は〜〜です」
「仕事はー〜です」
「こんな人生を送ってきました」
と、自分だと思っていることを延々と話してくれます。
時には、
「私の本体は魂です」
「私は〇〇星からやって来ました」
「私はムー大陸の生まれ変わりです」
とビックリさせてくれる人もいます。

自分が何者かと考えるかによって、
自分にとって何が大事かが決まるようです。
小さな事でうろたえるなら、
自分はその程度の小ささです。
これがわたしの無意識の信念です。
聖書を読み、キリストの姿に打たれ、
己を捨てて隣人のために生きよう、と
思った時に携帯が鳴り、
「アパートの雨漏りで、住人が弁償せよ、
引越し費用持てと苦情がきてます」
と、管理会社からの電話。

電話に出る前の平安はどこへやら
「何言ってる!バカじゃないの!」
私はなじり、非難し、攻撃し、
自己防衛し、自分を正当化します。
一瞬のうちに自動操縦で行われてゆきます。

心の平安、世界の平和が願いだ、
と言いながら、明らかに平安より大事なものがあったのです。
この世の信用、世間体、契約、金銭的な損害、喪失の不安や脅威の方が、世界平和よりも大切だったのです。
私にとって。
移ろうものに安心を求め、
何かで満足を得ようとし、
それが手に入らないと不安になり、
狼狽えたり、怒ったりする
「小さな私」
それが、私の感じている私です。
でも、
私は平安を選ぶこともできます。
状況に対抗せずに、あるがままを観察することで、
状況と分離せずにひとつであることもできます。

まわりのすべては自分を見せに来ますから、
自分を長い期間誤解し続けることはできません。

自分について狭い見方しか出来ないとき、
他人ついても自己中で限界のある無意識な部分だけに目がいき、そこに反応してしまいます。
相手の欠点を相手そのものと見ます。
エゴそのものを相手と見ます。
それを見ているのは私のエゴです。
でも、
相手の中の何かに反応するのは、
自分にも同じものがある場合です。
だから、
自分が他人からされていると思っていることは、
自分が他人にしていることです。
それに気づいたら、
自分は犠牲者から解放されます。

私はエゴではありません。
だから、エゴに気づいたから自分を知ったわけではなく、何者でないかがわかったのです。
何者でないかがわかると、
本当の自分を知る障害がなくなります。

誰もわたしが誰かとは教えてくれません。
占い師も宇宙人も。
誰かが教えてくれるものは、概念ですから、
わたしを変える力などありません。
信念も概念もいりません。
認識もいりません。
だって、
わたしはすでにわたしなのです。

この輝きが隠されていたのは、
わたしがわたしであることに気がつかなかったから。
心あるところに宝があります。
100億円の貯金が、
実はわたしの中にありました。

わたしはわたしで、豊かです。

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