プロレスラー・ケイちゃん
私が生まれたのは、
昭和34年、2月27日午後4時44分
(この時間をおしえてくれたのは、
長崎あんでるせんの久村マスターです)
どこにも記録はなかったし、
母子手帳も母は無くしてしまっていたし、
へその緒もどこかにいってしまったのに、
どうしてか、その時間を知っていたのは父でした。
それは、
初めての子どもが生まれるというので、
父は仕事を休んで病院にいたのだそうです。
もちろん、
当時は分娩室に男が入るなどということはあるまじきことで、
待合室で待ったのですが、
なかなか生まれないからちょっと家に帰ったすきに、
私が生まれたというわけです。
帰った理由というのが、「TVで力道山の試合があるから。」
家に電話もありませんから、試合が終わって病院に行ったら、
もう
母の試合は終わっていたというわけです。
あんでるせんの久村マスターが、私の生まれた時間を知ってるというのも不思議な話ですが、
ま、不思議は詮索しないことにして、
両親に聞いてみたら、
そうそう、その時間にお父さんがプロレス見に帰ってた時間だわと、
母が証言しましたから、おそらく正しいのです。
はい、
私がプロレス好きなのは、父親譲りです。
また、
一番肝心なときにあんまり頼りにならないのも、DNAですな。
小学校5年生の時、プロレスを見るために家出をしたことがあります。
欲しいものは何としても手に入れ、実現する、想いと行動は備わっていたようです。
でも、
プロレスラーは私の憧れでしが、自分が成るものではありませんでした。
ヒンズースクワットも50回しかできませんし。
(レスラーは準備運動で何千回もやります)
上田馬之介さん、橋本真也選手・・仲良しの選手も死んでしまいました。
すっかりプロレスとは縁遠くなっていました。
格闘技はプロレスではないので、嫌なのです。
勝つか負けるかではなく、相手に対して愛を持って、技を受けるレスラーの姿に胸が熱くなるのですから。
そんな私が久し振りにプロレスを見に行きます。
津にプロレスがやって来るからです。
「ケイちゃん」の凱旋試合です。
ケイちゃんは、うちの寛子さんの同級生の息子。
小さなころからプロレスが好きな男の子でした。
プロレスラーになりたいという夢を持っていました。
でも、
まわりは本気にするどころか、
「そんなのムリ」
「食べていけないよ」
「ケガがこわいよ」・・・
否定し続けていました。
そんなとき、
プロレスといういうものが、どれほど愛の深いものか、
子どものケイちゃんに語った赤塚高仁でした。
プロレスの技は、相手がいないと成り立たない。
これは体操やフィギュアスケートとはちがう。
どんなにすごい、破壊力抜群の技であっても、相手を怪我させてはいけない。
だから、
プロレスというのは
「受ける」ことなんだよ、
受けるためには、相手の思っていることを、
ときには相手より早く、汲み取る必要があるんだよ、
そして、
相手を光らせるんだよ、
相手を輝かせるんだよ、
それがプロレスなんだよ、
プロレスは愛なんだよ、
だから、
リングの上では、
試合相手と、
自分自身と、
お客さんの3人と戦うんだよ・・・
子ども相手に熱く語り、私が持っていたプロレスの本やビデオ、みんなあげました。
やがて、ケイちゃんは本気でプロレスを目指し、
アントニオ猪木さんに認められ、プロレスラーになりました。
プロレスラーケイちゃん、素敵な奴です。
ケイちゃん、日本の子どもたちに夢と希望を与えておくれ!
優しさと愛を届けておくれ!!
だけど、
ケガだけは気をつけておくれ。