赤塚高仁ブログ

不機嫌は罪

2019.03.13

 阿蘇の風の丘・大野勝彦美術館では、ずっとスタッフが笑っています。
もちろん大野先生も笑顔です。

 地震で庭が陥没して、建て物は閉鎖、道路は崩壊、水は来ない・・・
熊本から阿蘇に向かう幹線道路の橋が決壊し、山を越える道しかないとき、
なんとか美術館にたどり着くことが出来ました。
大野先生の顔が一目見たくて・・・
大野先生もスタッフも笑ってました。
そんな状態にもかかわらず。

 「こげんときやけん、なおさら笑わんと!」

楽しいから笑うのでは赤ちゃんです。
どんなときにも笑うと楽しくなるのが人間。

 私たちは、批判され、裁かれ、比べられ、欠点を指摘され続けてきました。
人からどう思われるかが生き方の基準になってしまうこともあります。
私はそうでした。
大学も、
会社も、
世間体で決めました。
自分をほめることなどなく、
自分はダメだという劣等感のカタマリでした。
だから、
いつも機嫌よくしているのは難しかった。
誰かが機嫌をとってくれるのを待っていたり、
まわりに愚痴や不平不満、泣き言をこぼしているうちに、
病気になってしまいました。

 地球という三次元現象界で生きるために、
私たちは肉体というモビルスーツをレンタルしています。
心と肉体を大切にしないと、不具合が生まれ病気になります。
大抵の場合、
自分をいたわらないときに病気なります。
だから、
自分に関心を持って、
自分をいたわって、
自分をほめて、
機嫌良くすることが何よりも大切です。

 自分が宇宙の最高傑作で、誰とも比べられない唯一無二の存在であると認められず、
自分なんていない方がいいと自虐的になる人もあります。
私もそうでした。
自殺したいくらい自分が嫌いだと思っていました。
でも、
実は死にたいくらい自分にしか関心がなかったのだと気づき、
考え方が変わりました。

 苦しみとは、自分について考えることです。

人を喜ばすことを考えている時、
人が喜んでくれたとき、
湧きあがって来る感情を「幸せ」と呼びます。
そこに苦しみはありません。
たとえ、悩みや問題があったとしても

 私たちはもともとひとつでした。
でも、
自分勝手に創り上げた「私」という錯覚によって
「分離」の世界を生きるようになってしまいました。
この分離感が、自分を責め、他人を裁き、社会をうらみ、他者を攻撃する、
すべての争いの原因なのです。
分離社会を終焉させ、ワンネスに戻る。
それが、聖書の永遠のテーマであり、私たちの課題。

 分離感を体験し、分離感を手放してエデンの園に還る。
これが聖なる約束なのです。
分離感は、いつ、どこ、誰にでも訪れます。

 弱るとき、恐れるとき、苦しいとき・・・瞬時にやって来るのが分離感です。

人を責めるな、責められないために
人を裁くな、裁かれないために

 2000年前のイエスの言葉は、永遠に不滅です

 自分がされて嬉しいことを人にしなさい
 自分がされて嫌なことは人にしてはならない

だから、不機嫌は毒であり、罪です
今日一日
にこにこ顔で命がけで生かせていただきます

   生きててよかった今日も

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