主の祈り
マタイによる福音書の中に、
イエスが弟子に祈りを指導する場面があります。
生まれてから一度も祈ったことない人は、
いないと思いますが、
神様が聞いて嬉しい祈りとはどんなものか、
それは考えたことありませんでした。
たいていの場合、
「祈り」という名の「願い」だから。
「願い」は自分のこと
「祈り」は誰かのこと
聖書を書き写して、
その通り朗誦するようにして、
それを
祈りだと思っていた頃もありました。
東北の震災のあと、
気仙沼の方言で書かれた聖書が生まれました。
山浦さんという方が、
ケセン訳聖書を出されたのです。
私が聖書講義をするとき、
イエスが津の言葉で話します。
クリスチャンには評判が悪く、
ちゃんと標準語でやってください、と叱られたこともあります。
でも、
イエスはそもそも日本語で話してへんし。
ナザレはアラム語で、イエスも方言やし。
それはさておき、
ケセン訳の主の祈り。
響きます。
日曜日の朝
聖日に祈りを
許されて今がある感謝を
だから 私たちも自分を、
自分で自分を許すのです。
人をゆるすのです。
そして、
ゆるされいることを思い出すのです。
ケセン語訳「主の祈り」
©山浦玄嗣 (やまうら・はるつぐ)
天においでのお父っつぁま
その名もたかくあっ尊(とう)で
お取り仕切りのくるように
お膝元でのそのように
神さま、
心はこの人の世に
上首尾(いえんべあ)ど
そのままなるように
今日のまっんまも
かせいでくれやんせ
ひとのとんが(咎)もゆるすから
おらの咎も堪忍してくれやんせ
おらの心が闇にまよわんように 災難、難儀の起きねえように
アァメン
ええ日に、ぼくからしますわ
自分で自分を許します
人に見えている自分の罪や汚れもゆるします
せやから神様 、
ぼくのことどうかゆるして
おくなはれ
頼んます
ゆるしておくなはれ
ぼくもゆるしますさかい
主の聖名によって祈ります。