人生は学校ではありません
学校は、知らないことを知るために行くところです。
それは
「知らないということを知っている世界」を
「知ってることを知ってる世界」にするということです。
学校は、本当の学びを始める準備をするところで、
本当のことはありません。
先生も何も知らないからです。
高校の歴史の先生が、
日本の建国を知らないのですから、
話にもなりません。
でも、
この宇宙は
「知らないことも知らない世界」なのです。
「知らないことも知らない世界」は体験する機会のことです。
私たちは体験し、
思い出すために生まれてきました。
私たちは誰か、を。
私たちの行動の動機は、
「恐れ」か「愛」か・・・
私たちはいつの間にか忘れてしまっています。
私たちが祝福の中でこの世にやってきたことを。
創世記に、神は人を創ったとき「はなはだ良い」と絶賛しています。
つまり、
私たちは、神が創造したなかでいちばん素晴らしい存在であるということです。
にもかかわらず、
私たちは、自分が何者かわからず、
ダメな存在だと思い込んでしまっています。
生まれた時から罪の中にあると思い込まされています。
どうして自分がダメだと思い込んだのでしょうか。
それは私が無条件で信じた唯一絶対の人・・・母と父がそう教えたのです。
お前はいい子だから愛する・・・
言うこと聞かない子は人さらいが連れていくぞ・・・
我が家では、
おとなしくしないと吉本に売り飛ばす、というのもありました。
「愛」が条件付きだと教えたのは親です。
褒めたり罰したり、ジャッジされているうちに、
私たちを創造した神もそういうものだと思い込んでしまったのです。
そのうちに、
自分も同じように、相手を条件付きで「愛」するようになります。
あの人は、いいことを言ってくれるから好き・・・
あの人は、すぐに怒るから嫌い・・・
恐れは小さく、固く、閉じて、ひきこもり、隠れ、蓄え、傷つけるエネルギーです。
愛は広がり、解放し、送り出し、明るく、分け合い、癒すエネルギーです。
恐れから動くから、
もっているものを失う不安に苛まれ、
もっているすべてにしがみつきます。
愛はもっているすべてを惜しみなく与えます。
「愛は寛容であり、愛は情け深い。
またねたむことをしない。
愛は自慢せず、愛は高ぶらない。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、
怒らず、いらだたない。
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、
すべてを信じ、
すべてを期待し、
すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがない。
いつまでも存続するのは、信仰と希望と愛である。
このうちで最も大いなるものは、愛である。」
(コリント第一の手紙)
と、パウロ先生は言っています。
恐れはしがみつき、
愛は抱きしめる。
恐れはつかみ、愛は解放する。
恐れはいらだち、愛はなだめる。
恐れは攻撃し、愛は育む。
私たちの考え、言葉、行動のすべては
恐れか愛か、どちらかの感情が元になっています。
どちらを選ぶのか、
その選択の自由が私たちに与えられています。
どちらからでも学べる。
それが神の愛。
人生は学校ではありません。
日々新しく、生まれ、
自分を愛することを体験し、
神と出逢い、
利他に生きて、
神の御許に帰還する、冒険の旅なのです。
今日が人生最後の一日かも知れません。
魂の喜ぶ、最幸の冒険をしましょう。