休みは盆と正月
建設会社の社長を退いて
「人生が変わる聖書漫談師」として、
去年は100本の講演会、イスラエルツアー4回、パラオへの慰霊などなど、休みなど考えることもないほど嬉しく、幸せな日々を送らせていただきました。
休みたいと思うことのない人生があるのだなぁと、
幸せを噛みしめました。
今年も休みなく予定を入れていましたが、
ここしばらくの予定は白紙になっています。
今月のペリリュー島も来月のイスラエルもなくなりました。
東京聖書塾も神戸聖書塾もなくなりました。
ご縁紡ぎ大学も無期延期・・・
人は何があっても働いて、
誰かの役に立って、
それができなくなったら土に帰る。
これが日本でした。
聖書の世界は、
神さまの罰で、男は労働しなくてはならなくなり、
女は産みの苦しみを与えられた。
と、されています。
日本は、
はたの人を楽させて差し上げる。
だから、はたらくと言ったのでした。
産経新聞4月10日山本一力氏のインタビュー。
全く
同感です。
(引用ここから)
「働き方改革」なんてご大層な名前をつけているけれど法律で労働時間を制限したり休暇を取らせたり、お上が強制使用なんていかにも役人が考えそうなおせっかいではないか。
私が小説に書いてきた江戸時代は「職業」と言うものが一般的に社会通念として育まれていた時代で、例えば丁稚は無給だけど、そのかわり店が読み書きそろばん、社会常識、商品知識を叩き込んでくれた。
そこには、働くことに対しての規範が横たわっていた。
その規範とは生きているうちは働けるだけ働いて、働けなくなったら土に帰っていく。
だから何があっても働きなさい。
と言うこと。
立派な意見だと思う。
「働き方」というのは言ってみれば方法論に過ぎず、方法論はあくまで規範の下に来るもの。
「働き方」改革なんてものは改革でも何でもない。
かつて、ゆとり教育でお上は同じことをやって失敗したではないか。
小学校の子供はまだ人間になりきってないんだから、まずは徹底して規範を教え込んでやるべきだったのに、役人はやりやすいところから手をつけた。
例えば「3.14・・・」と、以下が永遠に続く円周率。
円で計算するときは「3」で良い、とやったが、それでは「3.14・・・」と言う数が持つ深い意味が伝わらない。
私はそれを小学生で先生から教わった。
これは割り切れない答えで、それでも一生懸命計算している人がいること。
世の中には割り切れないことがあり、だからこそ、その解を求めに行くのだけれど、一生かけてもその解は出てこないということ。
働き方は仕事により千差万別。
それを十把ひとからげに、「何時にあがりなさい」などと言えるのか。
一生懸命働く規範になり力になるよと言った上で「これぐらい休みをとらないと体が持たなくなりますよ」と指針を示すのなら良い。
それなら現場でその指針を自分たちに取り込み「じゃぁうちは1日8時間では足りないから10時間にして、3日に1回休みを取るか」とそれぞれ方法を選べる。
だが現場も知らない役人が机上で考えた改革は、単なる大きなお世話だ。」(引用ここまで)
祖国日本がいい国になりますように。
やまとのこころが目覚め、日本が世界の灯明台となりますように。
日本よ永遠なれ!と祈ります。