創立記念日
赤塚建設株式会社は、私の父、次良(じろう)と母、知子(ともこ)が創った会社です。
設立は、私が生まれた年でした。
昭和34年です。
父の実家の魚屋の片隅を間借りして、父が大工のまねごとをしながら家づくりを始めたのです。
父は、東海ラジオのアナウンサー一期生ですから、大工ではありませんでした。
魚屋の次男です。
東海林太郎、若原一郎といった歌手の司会者として舞台にも上がっていました。
地元、津では少し知られた人だったようです。
その頃の仲間のお嬢さんが、松阪のあべ静江さんだったりします。
母は、10人兄弟の3番目か4番目(か5番目やったかな?)、とにかく男2人、女8人という生存競争の世界に生まれます。
優秀だったらしく、祖母はいいところに嫁に出そうと躍起になっていたそうです。
政治家、事業家・・・たくさんお見合いをしました。
そんな中で運命のいたずら、東海ラジオのアナウンサーと見合いをすることになったのでした。
私は、天上界でこの二人を出逢わせるのに命がけでした。
結婚してもらわなければ、この二人の子供として生まれることができませんから、
それはそれは、まさに必死でありました。
恋の矢を放つキューピッド!
いまとなっては、覚えていませんが・・・
「水商売の人間にうちの大事な娘はやれない」
祖母のその一言で、父は芸能界から足を洗い、
工業高校建築科を卒業しているという理由だけで、建築の会社を始めたのでした。
建築がすきですきでたまらない。
良い家を作って世の中に貢献したい。
人々を幸せにしよう。
そのような高邁な精神ではなく、
大好きな女性と一緒になり、賢くて可愛い子供を授かる、
そんな思いで生まれた赤塚建設です。
とってつけた創業の理念より、
はるかに素敵な「愛」の動機ではありませんか。
私はこの両親を選んだことを誇りに思います。
それでも創業の苦労は大変なものでした。
「東海次郎」と名乗っていた芸能人が、
名もなき赤塚として工務店を始めたのですから。
時代が応援してくれたのもありますね、
住宅ラッシュ、高度成長、波に乗りました。
商才母です。
創業から10年、会社を法人にし「赤塚組」と名乗りました。
私が跡目を継ぐ少し前に「赤塚建設」に社名変更しました。
昭和44年8月8日、赤塚建設は法人としてこの世に生み出されました。
大きな理念や、高邁な精神などうたわなかった両親でしたが、誠実で、ウソのない仕事をしてくださいました。
だから、私はどこの誰にあっても父の悪口を聞かされたことがありません。
巨万の富を残してくれるどころか、借金まで引き継がせてもらいましたが、
私が社長となってから28年、父が創ってくれた目に見えない財産のおかげで今日までやってきました。
父が残してくれた宝物は、お金ではなく、お金では買えないもの。
「人にウソをつくな」と教えてくれました。
「お前は会社を大きくするな、
大きくするのはアホでもできるが、
小さくするのはアホにはできない。」
「屏風は広げすぎるとコケる。
何でも広げ過ぎたらあかん」
「商売は牛のヨダレと一緒や。
細く長くダラダラと」
致知には絶対とりあげられないような赤塚次良語録でございます。
でも、世界中の誰よりも私を愛してくれた人です。
言葉を改めて噛みしめ、
創業記念の日、父母に感謝して、
生かしていただきます。
お父さん、お母さん
会社を創ってくれてありがとう。
2人が結婚してくれてありがとう。
そして、
僕を生んでくれてありがとう。
僕は、今度生まれるときも
二人の子供になりたいです。
お父さん、お母さん
ありがとう。