赤塚高仁ブログ

喜ばれる喜び

2019.04.15

人生の師のおかげで、
導いていただいたおかげさまで、
今日の私があります。

目をつぶって師を思う時、
面影とともに、
声が聞こえてきます。

天に住まいを移された、
師匠の教えを生きるとき、
師は、地上にも別荘を持って住まい、
今もなお伴ってくださるのを感じるのです。

伊勢の父、
中山靖雄先生
「喜べば、
喜びごとが喜んで、
喜び集めて
喜びに来る」
本当にそうです。

喜べることが来るのを待って、
喜ばせてもらおう、
誰かに期限をとってもらおう、
と、いう了見がよろしくありません。
そんなのまるで赤ちゃんです。

自立した大人とは、
自分で自分の機嫌をとれることですね。

糸川英夫博士の声も聞こえます。

「あなたは、誰か人の頭の上のハエを追っていればいいの。
みんな自分の頭の上のハエを気にしすぎね。
誰かの頭の上のハエを追っていてごらんなさい。
いつか、
あなたの頭の上のハエを追ってくれている人に気づくから」

自分のことはさておき、
人様のお世話をさせていただく。
人様が幸せになるお手伝いをする。
それが、
「誰かの頭の上のハエを追う」
という意味かも知れません。
そして、
それこそが、
人のなすべき仕事でしょうか。

自分が幸せになろうとして、
幸せになれないように、
人は創られているのでしょうか。

誰かの幸せを願い、
誰かの幸せのお手伝いをするとき、
感じるあたたかさ。

それを「幸せ」というのかも知れません。
そこが私たちの旅の目的地でしょうか。

今日も目の前の人が、
喜んでくださることに自分を捧げてゆきます。

悩み苦しみは、自分について考えていること。

自分勝手に作り上げた、
「私」という錯覚が苦しみを生みます。

「私」が消えた世界には
「平安」があるように思えます。

糸川先生との対話も、
中山先生との対話も、
先生が天に帰ってゆかれてから始まりました。

真実の対話は、
死に別れてから始まるのだと感じています。

私は、大きな財産をいただいたのだなぁとしみじみ思うのです。
だから、
受け取ったバトンを持って走り、
それを次に繋げるのが、
私の生きる意味。

喜んで生かしていただきます。

今日も生きてて良かった。

PAGE TOP