師の死
私の人生で師と仰ぐ方がふたり。
イスラエルと日本を結び、世界を平安に導こうと願っておられたロケット博士、糸川英夫。
私に旧約聖書を打ちこんでくださいました。
1999年2月21日昇天。
糸川先生の旧約の基礎の上に、キリストの聖霊の愛をうちこんでくださったのが、高橋恒男先生でした。
高橋先生との出逢いは、20年ほど前のことです。
「キリストの幕屋」という日本的無教会のキリスト信仰の団体があって、その伝道者として三重に来られたのが高橋先生でした。
いま、舩井勝仁さんと書きすすめている「黙示録」にちょうど高橋先生のことを書いていたところでした。
一部引用します。
「・・・そんなとき、ふと一人の人物の顔が脳裏に浮かびました。
その当時、ヘブライ語を習いに行っていた「キリストの幕屋」の伝道者、高橋恒男先生です。
特定の宗教には属さないことにしていた私は、信仰とは関係なく、ヘブライ語の勉強のために高橋先生のところに通っていたのです。
ところで、キリストの幕屋とは、熊本の手島郁郎という人物が終戦後GHQに追われて逃げた阿蘇山中で活けるキリストの霊と触れて始まった無教会の原始福音運動です。
原始福音とは、イエスキリストが説いた原始キリスト教にかえろうという信仰で、教会も持たず、道端で、湖畔で、神の国を説いたイエスに直接繋がろうという祈りの集いです。
また、精神的荒廃が進む日本の姿を憂い、大和魂の振起を願う日本的キリスト信仰と言ってもいいのかもしれません。
高橋恒男先生は、満州出身で北海道で牧師をしていたのですが、今のキリスト教には、 聖書の中にあるような神の命がはたらかないから奇跡も癒しも起きないと嘆き、日本キリスト教団の議長になれるであろうエリートの道をすべて捨てて手島郁郎氏の弟子となった伝道者です。
あの時、三重の幕屋に高橋先生が伝道者として派遣されていたことも、いきさつを超えた見えない大きな力の働きを思わされてなりません。
キリストの信仰に命をかけ、人生をキリストの伝道に捧げていた高橋先生は、いつも静かに笑っている人でした。
ヘブライ語の勉強に通っているうちに、私はすっかり高橋先生が大好きになっていて、心が疲れた時など、聖書の話や伝道のエピソードを聞かせてもらっているうちに癒されていったものです。・・・」
(引用ここまで)
高橋先生との出会いがなければ、私はキリストの信仰を知ることはなかったでしょう。
聖書を読むこともできなかったに違いありません。
愛の人でした。
信仰とは何かを身をもって教えてくださいました。
12年通い続けたマクヤですが、やはり宗教団体に対する私の違和感から辞めようと思いました。
しかし、高橋先生に申しわけなくて言い出せないまま何年も経ってしまいました。
高橋先生が三重から去られたらやめよう・・・そう思いました。
そのときふっと、高橋先生がいなくなることを望んでいる自分に気づいたのです。
それは高齢になった先生の「死」をも願っているモノではないかと・・・
私は、高橋先生のところに飛んでいきました。
そしてこう言ったのです。
「先生、申しわけありません。
ここ何年間か、私は先生に喜んでもらうためにマクヤに通ってました。
それは、信仰とは言えません。
先生がおられなくなったら、マクヤを抜けようと思っていましたが、
それは、心の中で先生の死をも願っているサタンの心でした。
ごめんなさい。
私はマクヤにいることがもうできません。
人間の関係につかれました。
永い間お世話になりました。
私、、マクヤをやめさせてもらいます。」
腕組みしながらじっと聴いている先生の横で、奥様が
「赤塚さん、何を言ってるの、
あなたがやめてどうするの、
信仰から離れてはなりません」
大声で先生は一喝
「君は黙ってなさい!」
おもむろに高橋先生は口をひらくと
「そうか、寂しいが
嬉しくもあるよ。
君は独自の色彩で伝道しなさい。
僕が三重に来たのは、君に会うためだったのかな」
やがて高橋先生は、京都のグループホームに移ってゆかれました。
先生の人生で28回目の引っ越しでしたが、それが最後の引っ越しとなりました。
イスラエルでも高橋先生のことは話しました。
今書いている本にも高橋先生のことを書いています。
「ヤマト人への手紙」でもあとがきに高橋先生のこと書きました。
私の最後のイスラエルツアーを見届けるようにして天に凱旋してゆかれた高橋恒男師。
今日は京都で葬儀です。
でも、私は名古屋でラジオの収録があるので参列しません。
「伝道者は、親の死に目にもあえないものだよ」と言っていた先生の遺志を継いで、
私は独自の色彩でキリストを伝えてゆきます。
高橋恒男先生、ありがとうございました。
そして、天からのご指導よろしくお願いします。