憧れ
自分を幸せにしようとして、
幸せになった人はいない。
やっぱり、
私はそう思います。
神さまは人をそんな風に作らなかったのだと思うのです。
自分が幸せになるために生まれてきた、
のではなく、
人を幸せにするために人は生まれた。
神さまは人をそんな風に作ったのだと思うのです。
自分の願いが叶っても、人はついもっと、もっとを求めてしまい「本当の幸せ」はまだ先にあるような気がします。
「これでいいのだ」
と、思った瞬間、自分が落ちこぼれてしまいそうな不安が立ち上がったりもします。
だから、
自分の幸せでなく、
人の幸せのために生きることが自分の心の平安のために良いのだろうなとも思います。
人のために命を使えるようになれれば、
「自分について考えること」から解放されるのはわかります。
苦しみの90%以上は、「私について考える」ことです。
ところが、
人がうまくいったら腹が立ったりするのですね。
ねたみ
嫉妬の心は強烈に
私の心の中に根付いています。
あいつは感謝知らずだ、
などと恩着せがましい心もふつふつと湧きあがったりします。
「人の幸せを願いましょう」
知っているのです、そんなこと。
もっているのです、知識として。
きっといつかできるさ、と思っているのです。
知っていてもできないものです。
自分のことばかり考えてしまうし、
追いかけます自分の幸せ。
意識して、あるいは無意識でも自分のことばかりです。
「あぁまたやってしまっている」
と、自分で自分を笑う繰り返しで60年生きてきました。
それとまったく逆に
「他人のことばかり考えていて、
じぶんを粗末にしていちゃだめだ。」
ということもあります。
そもそも、こういう思考がぐるぐるまわっているレベルの心で、人のために生きるとか、人にやさしくとか、
言うは易しされど、行うは難し なんでしょうね。
なかなかできないことだから、ことばにして人も言う。
すぐに忘れてしまうから、ことばにしてじぶんも言う。
普通によく言われることとは、つまり難しいことなんですね。
聖書にある格言も、4000年経っても古びないのは、
簡単そうで難しく、単純そうでややこしいからかも知れませんね。
「そうあったらいいんじゃない?」という憧れみたいなものかもしれません。
でも、「憧れ」はとても大事だと思います。
今年もまたイスラエルに行きますが、子供の頃
「死海で浮かびたい」と、憧れなかったらたどり着かなかったかも知れませんから。
死にたいほど憧れた、
あの赤塚不二夫さんと出会えて、
友だちになれたのですから。
言うは易し、であっても やっぱり私は言うのだろうなと思うのです、
「憧れ」とは、つまり、そういうものなのでしょう。
憧れは、死んでも手放してはいけないのです。
泣いても笑っても、
いつか目が覚めない朝が来る。
どんなにスケジュールがいっぱいあっても、
やり残したことがあっても、
目が覚めない朝が来るのです。
この世が旅だとしたら、
あの世が帰るところ。
帰るところがあるから旅は楽しいのです。
そこがどんなところなのか
「憧れ」ましよう。
死が終わりではなく、
次の旅の始まりだと教えてくれたのはイエスでした。
「憧れ」を強くもつ
まとめるつもりで書き始めた文章だけれど、
言いたいことが何だったのかわからなくなってしまいました。
こんなときは、
魔法の言葉
「だから、これでいいのだ!」