赤塚高仁ブログ

日常という帰る場所

2019.05.13

旅が楽しいのは、
帰るところがあるからです。
帰るところがなく彷徨うのを流浪といいます。

イスラエルから戻りました。
今日から日常に戻り、
会社に出ます。

会社を守ってくれる社員さんに
感謝です。

聖地で聖書を読んできました。
聖書の中にとてもたくさん出てくるのは
「愛」という言葉です。

私たち日本人には、
よくわからないところがあるのも、
事実でしょう。

古来、
日本語に「愛」という言葉はありませんでした。

キリスト教が伝えられたとき、
どういう風に伝えたら日本人に届くのか宣教師たちは考え、
日本人に聞いてゆきます。
そして、
こう翻訳したのでした。

「おたいせつさま」と

私たち日本人にとって、愛とはなんでしょう。

私たちは、困っている人を見たらどうするでしょう。
どんな時でも、無条件にその人を助けるでしょうか。
助けないのは愛のない行為でしょうか。

あきらかに不当な要求をされたらどうするでしょう。
愛があるから受け入れるでしょうか。
受け入れないのは、愛がないのでしょうか。

もしあらゆることに対して、
「愛とはこうあるべき」という観念から行動するとしたら、その人は愛を知りません。

正しさという観念から愛を所有しているに過ぎません。
私が勝手に作り上げた正義感かもしれません。
愛という名の元で、人を裁きます。

本当の愛には叡智が内在しています。
叡智は「理解」という言葉に置き変えてもいいでしょうか。

理解が伴っていない愛は、単なる「愛という観念」に過ぎません。

観念は愛ではありません。

正しさの観念は、愛の真逆です。

観念は固定されていますが、
愛は臨機応変だからです。

観念は過去の学びですが、愛は「いま」の感応です。

したがって、愛は予測不能です。

信念や、信条や、観念の奥にある、本当の自分の感性を見つけること・・・
それが愛に繋がっています。

なぜなら、愛とは自分の本質だからです。

本質に近づく秘訣は、リラックスすることです。

力を抜くこと。
どこまでも、どこまでも、力を抜くことです。
緊張から解き放たれ、自我という圧力が減るとき、
愛は自然に流れ込んでくるようです。

そして、意識的であることが必要です。

「自分は愛を知らない」という人がいます。

なんて正直な人でしょうか。

もし知らないのに知っているつもりになったら、そこでオシマイですから。

でも、知らないという事を知っていれば、いつの日にか知るチャンスが訪れます。

そして、その向こう側に「知らないことも知らない世界」が無限に広がります。

 「知りたい」「教えて欲しい」という依存から離れるとき、
向こうからやってくるのです。

それを私は「恩寵」と呼んでいます。

それは「いま」かもしれません。

そう、間違いなく、それを知るのは「いま」です。

ちょっと解りづらいかもしれませんが、
「いま」と「愛」は同義語です。

 「愛」という言葉は、日本人にはなじめない言葉のようです。
だから、聖書に抵抗感を持ってしまいます。

でも、
人間として大切なことは、
人類みな同じ

自分を大切に
そして、まわりを大切に。

「お大切さま」
ステキな言葉です。

日常という奇跡の海の中で、
ひとつひとつを、お大切さまに

そして、
この広い宇宙の中で
たったひとつのユニークな存在
「自分」を
お大切さまに

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