沈黙
遠藤周作さんの「沈黙」が映画になりました。
50年前の作品です。
1971年篠田監督で映画化されていますが、
今回はマーティン・スコセッシ監督です。
「最後の誘惑」を撮った、アカデミー賞にも輝く巨匠です。
観ました。
江戸初期のキリシタン弾圧下の長崎。
キリスト教と日本人。
人間の強さと弱さ。
信仰とは何か・・・
さまざまなことを深く考えさせられる名作です。
いま、この映画を見せられたことは、まさに神様からのメッセージと思えます。
キリストイエスの伝えたこと、それが人から人へと渡されてゆく間に臭いがつき、
腐ってゆく。
真理という果実が腐ると、宗教になる。
異文化に対して賢く向かい合った私たちヤマト人の先輩方の智慧に感謝します。
キリスト教という宗教の名を借りて、「うしはく」世界を広め、世界を支配しようとする白人の文明。
異文化との衝突の中から真実を見出すヤマトの凄さも感じられる映画になっています。
いま、私は教育勅語の本を書いています。
教育勅語を発布しなければならなかったのは、力によって支配しようとする白人世界に対して、
守るべきものを明確にしなければならないという明治天皇の御覚悟でした。
キリシタン禁止と同じ意志なのです。
これまで16年間、私を導いてくれていたパウロがまったく「沈黙」しています。
パウロは、キリスト教を広めたことを悔いているようです。
間違った世界宗教が世界を汚してしまったことを悔いているのです。
ヤマト人が、光となり、
日本が世界の灯明台となることがこれからの課題です。
イエスはパウロを赦しています。
その部分を書いている、ちょうどそのときに「沈黙」を観ました。
まさにキリストからのメッセージです。
一気に書きすすめます。
たくさんの気づきをもらえましたから。
とりわけイッセー尾形さんのイノウエサマは素晴らしかったです。
ところで、遠藤周作さんは1974年の著書『切支丹の里』において棄教者に向ける思いを以下のように記しています。
「棄教者は基督教教会にとっては腐った林檎であり、語りたくない存在だからだ。
臭いものには蓋をせねばならぬ。彼等の棄教の動機、その心理、その後の生き方はこうして教会にとって関心の外になり、
それを受けた切支丹学者たちにとっても研究の対象とはならなくなったのである。
(中略) こうして弱者たちは政治家からも歴史家からも黙殺された。
沈黙の灰のなかに埋められた。だが弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。
彼等がそれまで自分の理想としていたものを、この世でもっとも善く、美しいと思っていたものを裏切った時、泪を流さなかったとどうして言えよう。
後悔と恥とで身を震わせなかったとどうして言えよう。
その悲しみや苦しみにたいして小説家である私は無関心ではいられなかった。
彼等が転んだあとも、ひたすら歪んだ指をあわせ、言葉にならぬ祈りを唱えたとすれば、私の頬にも泪が流れるのである。」
キリスト教を超えて、キリストを伝える。
これが私たちヤマト人にとっての「聖なる約束」なのです。