赤塚高仁ブログ

白梅の少女

2017.01.28
沖縄に到着すると、懐かしい友が迎えに来てくれていました。
ダウンコートがもう荷物。
日中は気温が25度にもなるとのこと。
   水素のセミナーの準備もあるのですが、
南部に車を走らせてもらいました。
これまで数え切れないほど訪ねた沖縄、
伊江島には光のピラミッドを建築もしました。
やまとこころの講演会にも何度か呼んでいただきました。
でも、
そこには行ったことはありませんでした。
「白梅の塔」です。
ひめゆりの塔には何度もお参りさせていただきましたが、
白梅の塔はしらなかったのです。
ひめゆり部隊については、戦後何度か映画化されているためよく知られています。
しかし、沖縄戦での女子学徒による看護隊は、ひめゆり部隊だけではありません。
他に、白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)、ずゐせん学徒隊(県立首里高女)』積徳学徒隊(私立積徳高女)、梯梧学徒隊(私立昭和高女)、なごらん学徒隊(県立第三高女)などが、それぞれ看護隊として従軍しています。
本来、国際法であるハーグ陸戦条約によれば、たとえそれが敵軍であっても、医療施設に対する攻撃はしてはならないことになっています。
しかし、米軍の砲撃は容赦なく、医局にいる彼女たちのうち多くが死亡してしまいます。
6月18日、沖縄の日本軍がほぼ壊滅し、彼女たちにも解散命令が出されたけれど、逃げまどう彼女たちに容赦なく米軍の銃弾が襲いかかり、
ひめゆり部隊240名のうち、終戦時までに生き残ったのは、わずか14名でした。
「白梅学徒隊」は、ひめゆり隊より17日はやい、3月6日に55名で結成されました。
そして、第二四師団の野戦病院で、看護教育を受けます。
3月23日、沖縄に米軍の猛爆撃が開始されます。
もはや、地上にある病院では危険です。
第二四師団の野戦病院は、医師や患者とともに、八重瀬岳の病院壕に移動しました。
病院壕といえば聞こえはいいけれど、これはただの「ほら穴」です。
床も壁も天井も地面むき出し、近くに爆弾が落ちれば、轟音とともに天井から土や石が落ちてくる。
その洞穴に、前線で重傷を負った兵たちが運ばれてきます。
沖縄戦でも、少しでも動けるものは、銃をとって戦っていましたから、そこに運ばれてくるのは、すでに戦闘能力を失った重症患者ばかりです。
兵士と言っても、
その頃には職業軍人の多くは命を落とし、
招集令状、赤紙で召された、言わば普通の人たちです。
昨日まで田んぼを耕していたり、会社で働いていた人たちです。
彼らが沖縄にやってきたのは、沖縄を守り、日本を護る為です。
彼女たち白梅部隊は、そのほら穴で、負傷兵の看護や手術の手伝い、水くみ、飯炊き、排泄物の処理、傷口に沸いたウジ虫の処置、死体埋葬、伝令などをします。
まだ16歳の少女が、兵隊の尿を取ったり、膿だらけの包帯を交換したり、傷口にわいたウジ虫を払い落としたり、亡くなった兵隊の死体を運搬したりしたのです。
手術は、医師たちによってほら穴の中で行われます。
爆風によってつぶされた腕や脚は、最早切り取るしかありませんでした。
麻酔はおろか、薬もありません。
切り取った手足は、バケツに入れられ、それを白梅部隊の女学生が、交代で、敵の爆撃のない早朝に表に捨てに行ったそうです。
4月下旬になると、負傷兵が増加し、ほら穴の入り口付近まで、負傷兵であふれるようになります。
やむをえず5月上旬には、東風平国民学校の裏手の丘にも分院を開設し、収容しきれない患者をそこへ移すのだけれど、その分院のある場所にも、米軍が迫ります。
やむなく分院は閉鎖し、もとの八重瀬岳の本院へ患者と白梅隊を集合させます。
分院を閉鎖するとき、白梅隊のメンバーが、歩けない負傷兵たちに青酸カリなどを与え、彼らを処置しました。
彼女たちは、沖縄県立第二高等女学校の最上級生(四年生)とはいえ、いまならまだ高校一年生。16歳の乙女たちです。
痛みに苦しむ患者たちの日常の世話をし、彼らと親しく会話も交わしていたものを、歩けないと知った彼らに、青酸カリを渡すわけです。
そのときの心の痛み、辛さ、苦しさ、哀しさはいかばかりだったでしょう。
6月4日、八重瀬岳の本院にも、敵の手が迫ります。
病院は、約500名以上のの重症患者の「処置」をします。
こうしたむごい作業も、白梅看護隊の仕事でした。
そして、病院は解散し、白梅隊も、この場で解散となります。
彼女たちは、軍と行動をともにしたいと願い出ます。
しかし、もはや死を覚悟した軍の兵士達は、彼女たちの願いを退けます。
どうしても、彼女たちには生き延びてもらいたかったのです。
彼女たちは、数人ずつに別れて、南部に向けて撤退します。
逃げるあてなどありません。
そして、爆風渦巻く中、8名が途中で死亡し、ようやく16名が国吉(現糸満市)でほら穴を見つけ、そこに隠れます。
そこが、いま「白梅の塔」のある洞窟なのです。
その16歳の武器さえ持たない彼女たちの隠れる壕に、6月21日、米軍が「馬乗り攻撃」を仕掛けてきます。
「馬乗り攻撃」というのは、ほら穴の上から穴を開け、その穴からガソリンなどの可燃物を注ぎこんで火を着ける攻撃法です。
この攻撃で、壕に隠れた彼女たちのうち、6名が死亡。
6月22日、上の壕も同様の攻撃を受け2名が死亡します。
そして後日1名も、重度の火傷のため米軍病院で死亡。
結局、動員された55名の生徒のうち、17名の少女が命を失いました。
生還した彼女たちは、入隊したときの気持ちを次のように語っています。
「全く不安はなかったね。戦争は絶対に勝つもんだと信じきっていたから」
「私たちが行かなかったら、誰が傷病者を世話するのって真剣に思ってた」
「ただもうお国のために...という気持ちで一杯だったんです」
彼女たちに戦局の様子はわかりません。
ただ、爆弾が落ち、次々に運ばれてくる負傷者を必死に介護した。
そして多くの命が失われた。
戦いに敗れ、蹂躙されるということは、こういうことなのですね。
なぜ彼女たちが、ここまで追い詰められ、この世の地獄とも思える厳しい現実に接しなければならなかったのでしょうか。
それは戦争だったからです。
世界に法律はありません。
国家間の条約があるだけです。
そしていったん戦争になれば、条約など誰も守らない。
戦時中でさえ、必死に条約を守り通したのは、世界広しといえども日本軍ぐらいなものです。
要するに世界は、力こそ正義なのです。
そのことは今も昔も変わっていない。
日本は、戦後70年、戦争をしていません。
この70年間に戦争をしていない国は日本とスイスだけでしょうか。
日本が東亜において戦後70年、戦争をしないで済んだのは、米国の核の傘に守られたからです。
日本を攻めることは、米国の核を敵にまわすことになる。
間違っても、憲法9条があるからではありません。
私たちは、いま改めて考える必要があります。
国を愛するとはどういうことかを。
 暮れなずむ沖縄の夕焼けの中、
誰もいない静かな白梅の塔、その横に洞窟があります。
真っ暗な洞窟に降りて行くと、コウモリが飛び立ちました。
ここに16歳の白梅の少女たちがいたのです。
目が慣れてくると、洞窟のまわりの壁が黒く焼け焦げているのがわかります。
昨日まで人形を抱いたり、裁縫をしたり、文をしたためたりした手で、
兵士のちぎれた腕を持ったり、
腐った肉からウジを取ったり、
破れた腹に腸をねじ込んだり・・・
まだ恋も知らない16歳の白梅の少女たち。
   洞窟の地面に手をつき、
「ありがとうございました。
あなたがたの優しさで、死んでゆく兵隊さんたちが、
最期に救われました。
私たちもこれからの日本のために生かしていただきます。
どうか、天上よりの支援、
お願いいたします」
と、祈りました。
   一緒に洞窟に入ってくれた友がその時の様子を写真に撮ってくれました。
あとで見せてもらうと、霊の光が写っていました。
白梅の少女たちの御霊が来てくださったようです。
ありがたいことです。
  沖縄の人たちも知らない白梅の塔。
導かれるように訪ねる道中、空には鮮やかな二重の虹。
見えない世界で何かがつながったのかも知れません。
 いま私たちが豊かな日本で暮らせるのは、
日本を護ってくださった先輩たちのおかげです。
500年前、千年前にも、日本をいい国にしようと、
美しく生きてくださった祖先の方々のおかげです。
   私たちも千年先の日本がいい国であるように、美しく生きて死にたいですね。
久しぶりに眠れない夜を過ごしました。
南の島に夜明けが来ます。
さあ、今日は背広を着て、
水素の事業説明会です。
  未来の日本をよくするため、魂こめて語ります。
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