私は私でいいのだ。
モーセの十戒に
「他人をうらやむな」
があります。
「うらやむ」心は、妬みであり、
死んでも消えない怨念になります。
生き生きと輝いている人を見て、
「私もあんな風になりたい」と思うことがあります。
あの人は素晴らしい、
と思った瞬間から私はダメだと心は反応します。
でも、
「あの人の素晴らしさ」を発見したのは、
私の中にある同じもの、だということに気づきました。
そしてその瞬間の私がどれほど輝いているのか、知らされました、
私は、その瞬間、その人ではなく、
自分の内にある輝きを発見しているのです。
しかし多くの人はそのことには気づけません。
目が外にあるその人に向いているからです。
目はその人が素晴らしいのだと誤解します。
そんなとき、外ではなく、
内側で確かに感じている自分、
素晴らしいものを素晴らしいと認識している
その主体に意識を集中し続けていると、
自然にいつの間にか「自分はこのままで良いのだ」
という感覚が、自我の壁をやぶって浮かび上がるのです。
あの人は素晴らしいが、それに引きかえ自分は駄目であるという世界から解放されて、
エネルギーじゃじゃ漏れ状態が終わります。
あの人が「うらやましい」と思うほどに、
自分が惨めでみすぼらしくなることもなくなります。
嫉妬心は、「自分は不完全である」
という思い込みによって起きてきます。
自分は駄目かもしれない、自分には魅力が足りない、
自分には力がない、自分には無理、
こんな思い込みがある限り
「ねたみ」の思いが消えることはありません。
私たちは初めから完全であり、
本当は今この瞬間も完璧です。
それに気づくだけで元の完全に戻ります。
赤ちゃん自分のことを駄目だなどとは思っていません。
赤ちゃんには死の恐怖もありません。
何故なら、
赤ちゃんに死がないからです。
私たちが「死」と呼んでいるものは、
「自我の死」なのです。
自我のない、
分離のない、
全てが一体である世界には、
「死」はなく、
ただ真我に還るだけ。
ところが、
私たちは生まれてすぐ、
神の如き人物に、
こう教え込まれるのです。
「いい子になるのよ」と。
無垢な赤ちゃんは、母親のこの言葉をまともに受け取ります。
「いい子になって母を喜ばせる」と。
そして、今のままではいけないということなのかもしれないと、
母親の顔色をうかがい始めます。
子供には価値観がないからです。
そして母親の顔色によって、いつの間にか母親の価値観が刷り込まれてしまいます。
やがて、お父さんが「立派な人間になれ」と言います。
こうして子どもは「そうか誉められなきゃだめなのか、存在しているだけでは駄目なのか、
自分はこのままではいけないんだ」と受け取ります。
私は、
ようやく「答え」と出会うことができました。
「あるがまま」を説く人を大勢見てきました。
イエスキリストについて語る人とたくさん出会いました。
しかし、
「あるがまま」を生きている人物に出会えたのです。
この人はすごい!
と思った瞬間から
「このままではいけない」と反応するパターンから解放されていました。
昨日、3時間ほど
その人と一対一で語らいました。
私が永らく求め続けた
「答え」でした。
求めなければ、得られないけれど、
求めたからといって与えられるものでもなく、
まさに「恩寵」と呼ぶにふさわしい、
いきさつを超えた出会いでした。
運命が変わるとき、
人と出会います。
運命とは、人が運んでくれる、
私の命です。
私はこのままで素晴らしい。
あなたはそのままで完璧です。
だから、
これでいいのだ。