聖書の読み方
私は聖書の解説書を読みません。
どんなにわからないときも、誰かの解釈を求めません。
聖書は、誰かの頭を通った考えを知るための書ではないからです。
聖書は、神の霊の結晶であり、聖霊の愛です。
「私」が読みたいように読む小説ではないと思っています。
ただじっと文章を見る。
何度も読む。
わかろうとして力を入れずに、全体をふわっと観る。
それがいつしか熟成して・・・
そのうちに、
それを書いた・・・いや、書かされた人物の想いがふんわりと浮かび上がって来て、
文章が動き出します。
すると、訳された日本語を超えて、聖書の向こう側から霊の香りが染みだしてくるのです。
古事記は、原文が読めないので竹田恒泰先生の口語訳をそんな風に読みながら意味をくんできました。
この読み方はおすすめもしないし、実に非合理です。
ただ、こうやって聖書に向かい合った10数年が、私を霊的に磨き上げてくれたし、
考えたり、想像する力をささやかながらも育ててくれたと思うのです。
そして、イスラエルの現場で足の裏で読んだとき吹いた風が、聖書の源流に私をいざなってくれました。
聖書という人類最古の本が、旧約聖書4000年、新約聖書2000年も世界で読まれ、
知らない人がいないウルトラスーパーベストセラーになり、しかも今も年間1000万部売れ続けているのは何故でしょうか。
そんなことが知りたくて、時折深く読んだり、
しばらく触りもせず放りっぱなしにしてみたりしながら永い年月が過ぎたのでした。
そして気づきました。
だから、聖書塾をやろうと思い立ったりもしました。
それは、
「これは宗教の本ではない」ということです。
人間がこの世に生まれた意味を、人を創った大いなるエネルギーが人の言葉として伝えた真理の書です。
イエスは言います。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一粒にてあらん。
もし死なば多くの実を結ぶべし」
人間は、一粒の麦の様なものです。
この世に生きている限り、孤独な一粒の麦です。
だからこそ、生きたい、死にたくないとあがけばあがくほど孤独は深まってゆくばかりです。
しかし、死ぬことによって初めて大地に抱かれ、新たな命につながってゆけるし、
実りをもたらすのです。
人が自分のために生き、自分を豊かにしようと自分のことばかり思い考えていたら、
これほど空しいことはないでしょう。
どんなに栄光栄華を手に入れても、どんなに上手に世を渡っていても、最後には死ぬだけです。
しかし、どうせ死ぬ
死んだら終わりだという唯物論の行く先は「虚無の闇」です。
この虚無の闇から脱して、光を生きるのは、人のために生きることです。
自分に死んで、新しい命を生きるのです。
それを聖書は教えます。
人のために生き、利他の心で歩いているとき命を次につなげることが出来ます。
そのとき、ふいに命の意味を知るのでしょう。
イエスがどれほど大きな愛を顕したか、
ヨシュア・ベン・ヨセフという実在の一人のユダヤ人が、人間の生まれた意味をそのまま生き切り、
ただ、他人の罪を背負って磔(はりつけ)になって死んでくださったという事実が今も世界を動かしているのです。
彼の血統が大事だとか、
彼は死んでいなくて、弟が代わりに死んで、本人は日本の青森で死んだとか、
そんなスキャンダルは鼻くそほども意味のない話です。
キリストイエスと呼ばれた、ヨシュアは聖書など書いていませんし、ましてや戒律や教義や教理など無縁の男でした。
12人の弟子たちと、3年間本当のことを伝え続けた真実の人でした。
聖書は、その人物のために書かれた本だと言っていいでしょう。
だから、その人を神のように崇め、教祖にしたりして宗教をつくってはいけません。
真理が腐ると宗教になります。
神の香りが、人間の臭いになってしまう。
唯一絶対の神・・・それを造ったのは誰かという私の問いに宗教は答えてくれませんでした。
それでいいと思います。
12年間のキリスト教生活を離れ、いま改めて聖書が深く迫ってきます。
無教会主義の団体でしたから、洗礼も受けていません。
私たちにわからないことはたくさんあります。
いや、分かることの方がはるかに少ないと言っていいのではないでしょうか。
私は、聖書を読むのに解説書は読みません。
所詮、解説書を書いた人物も悩み多き、弱き人間です。
そんな人の解釈聞いても仕方ありません。
聖書は頭で読むものでなく、
御霊が感じるまで、聖書の方が語ってくれるまで静かに向き合いましょう。
そして、イエスのように人のために生きる姿を目指す。
それが聖書の読み方です。
聖書に手を置いて、大統領就任を誓うことよりも
聖書の命をいきることが大事です、キリストの国を自任するなら。
我が国の天皇陛下のお姿こそ生けるキリストだと思えてなりません。
自分のために決めたり、行動されたり一切されない我が国の天皇陛下の大御心こそ聖書の命を顕すものであり、
ヤマトこそが真のキリストの国だと私は静かに思っているのです。
キリストもアッラーも仏陀も八百万の神も大好きな私は、
一神教の洗礼を受ける資格はありませんので、私はキリスト教徒にもなりませんが、
キリストと呼ばれる実在の、あの33歳で殺されたユダヤ人がたまらなく好きで好きでならないのです。
だから、イエスとの対話は死ぬまで・・・いや、死んでも続くことでしょう。
たとえ、主が「沈黙」されていたとしても。