赤塚高仁ブログ

34年ぶりの再会

2018.12.01

 その人との最後の場面はこんな風でした。
場所は、高松
時は今から34年前、私は25歳、彼は29歳
タクシーには4人が乗り込み、
彼は前の席に、
私は後ろの左の席、真ん中はコーラスの女性、
そして、
運転手の後ろの座席には山下達郎さんが座っていました。

山下達郎コンサートの後、打ち上げ会場に向かう途中、
私の住んで居た県営住宅に立ち寄り、バンドエイドを取りに行ったのです。
達郎さんが指先を傷つけたのだったと思います。

大学時代、
私は明治大学のサウンドシティというサークルに所属し、
バンドを組んでギターを弾いて、歌を歌っていました。
ライブハウスに出入りするうちに、
「業界」の人たちと仲良くなり、
プロのコンサートのお手伝いをするようになりました。
渡辺プロダクションにノンストップというセクションがあって、
ロックやニューミュージックを扱っていました。
あるロックバンドのスタッフとして、ナベプロに出入りするようになりました。
当時そこにいたのは、
太田裕美さん、
アンルイスさん、
大沢誉志幸さん、
そして今でも仲良くしている、山下久美子さん。

 青山に総合企画というイベント会社があって、
そこでもバイトをするようになりました。
ユーミン、
竹内まりや、
RCサクセション、
高中正義、
Y・M・O、
・・そして、山下達郎・・
凄腕の制作担当の萩原氏は、私の憧れの兄貴でした。
萩原氏は舞台の袖で見守る人でした。
多くのアーチストを育てました。

さんざん悩んだ結果、
音楽業界に進まず、建設の世界に進路を決め、
飛島建設という4500人ほどの社員の会社に就職しました。
営業に配属され、新入社員で四国支店にゆきました。
スポットライトの眩しかったステージの世界を懐かしみながら、
四国を汽車でまわり、地方の役場を歩いて回りました。
ときどきやってくるスターのツアーに出かけては、
日常の鬱憤を晴らしたものです。
山下達郎ツアーで、萩原氏が高松に来て、一緒にタクシーに乗り込んだのもそんな頃のことです。
それが最後でした。
年賀状のやり取りもやがてフェードアウトし、
風の噂で、萩原氏の奥さんが3人の子供を残してガンで亡くなったのを知ったのも、
ずいぶん後になってからです。

Facebookの書き込みに
「Shima、元気そうだな。
 活躍みているよ」と現れたのは今年の春のことでした。
私のことを「shima」と呼ぶのは、音楽業界の人か大学時代のサークルの仲間。
プロフィールを見るとHagiwaraとあります。
あの萩原氏でした。
会いたいと思いながら、ようやく会えたのは11月30日
萩原氏は、音楽業界から離れタイに住んでいるそうで、日本にいる短い滞在期間で私が会える日はピンポイントでした。

 赤坂の東洋軒での再会に、萩原氏は美しいタイ人の奥さんと一緒にやってきました。
「Shima!会いたかったよ」と笑う優しい目は、萩原氏です。
34年の空白の時間が一気に吹き飛び、
私は萩原氏とあの頃の自分と、様々な物語とが旋風のように駆け巡るのを感じていました。

イベント会社を自分で立ち上げ、
ミーシャというミュージシャンをプロデュースし、
やれるだけのこと
やり切って音楽の業界から離れたハギワラ氏でした。
いま
ハギワラ氏は、
200人ほどのタイ人を使って、
日本から連れて行った一流シェフが焼くパンとお菓子の会社を経営しているそうです。
タイの王室とも繋がっているなんて素敵です。
そして、
何より驚いたのは、
萩原氏は熊本生まれで、お父さんは中川州男大佐の高校の後輩だというではありませんか。
ペリリュー島から帰ったこのタイミングでこの話・・・・
まさに天の計らいでしょうか。
東京聖書塾の前日、ふっと空いた時間が私を恵みに連れて行ってくれました。
出会いには、
やはりいきさつを超えた、
目に見えない大きな力が働いているように思えます。

赤ワインが一本空く頃、
またの会う日を約束して別れましたが、
昼下がりの赤坂が違う世界に見えたのは、
ワインのせいばかりではないと思うのです。

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