赤塚高仁に願われていること その2
大学時代の赤塚さんは学業よりも音楽に熱を上げ、山下達郎や竹内まりや、松任谷由美、忌野清志郎などのコンサートを手伝いながら、
芸能界にも人脈を広げていた。
特に同い年の山下久美子とは親友になって、布袋くんとの結婚式にも呼ばれた仲。
そんな調子で、卒業前には芸能事務所から内定をもらっていたというから、
そのまま音楽業界で才能を伸ばせばよさそうなものなのに、つい真面目に家業を継ぐことを考えでもしたのか
就職先はゼネコン大手を選んだ。
東京で開花した人とつながる能力をかわれて、若き赤塚さんは営業担当という談合担当に配属。
入札価格を知るためにゴルフ接待をしたり、出社もせずに選挙運動に走り回ったりと、新卒社員らしからぬサラリーマン生活を送った。
しかし、ロックを愛する若者が、そんないびつな業界の水に染まるわけもなく、数年で心身の不調をおぼえて帰郷することになる。
二十代後半の赤塚さんは、家庭を築いて待望の娘さんを授かるなど幸福に恵まれながら、
一方で仕事の挫折と心身の不調に苛まれた。
ついには思いつめて自殺をはかるが、寛子さんに救われて一命を取りとめた。
このときを契機に、赤塚さんの目は精神世界に向けられるようになり、さまざまな宗教にも答えを探した。
インドへの渡航や宗教家との対話など、渇いた心が求めるままに惑った。
そんな迷いから赤塚さんを救ったのは、日本のロケット開発の父として知られる糸川英夫博士との出会いだった。
晩年の糸川氏はイスラエルと日本の交流に尽力して、精神的荒廃の進む日本人の魂の復興を訴えていた。
当時29歳の赤塚さんは、糸川氏に見出され、共に幾度となくイスラエルの地を踏み、ユダヤの民の神話にもふれてゆく。
この体験で日本人としての自分を再考した赤塚さんは、錚々たる工学の弟子たちに一人混ざり、糸川英夫の精神を受け継ぐ一番弟子となった。
続く