ペンシルロケット60年
長さ23センチ、太さ2センチ弱、こんな一本のえんぴつから日本の宇宙開発の歴史が始まったのでした。
戦後10年で糸川英夫は、ペンシルロケットを60年前の4月11日東京の国分寺で発射したわけです。
飛行機に乗って大西洋を横断しようと思っていたら、リンドバーグに先を越され、
それでは飛行機の設計者になろうと東大から中島飛行機に入り、九七式戦闘機、一式戦闘機「隼」、鐘馗といった名機を生み出すも、
ポツダム条約受諾で航空機産業は一切廃止。
生きる望みを失って、自殺さえ考えていた糸川英夫でした。
東大医学部の友人から、脳波の測定器という当時の誰も考えなかったようなものを開発することを依頼され、
作り上げるのですが、焼け野原の日本で誰も買う人がいない。
それで、アメリカに売りに行くのです、糸川博士は。
そこでついに出会うのですね、「ロケット」というものに。
人生塞翁が馬と言いますが、出来事のど真ん中にいるときって、耐えられないほど苦しいものです。
でも、糸川博士の中にあった「日本をいい国にしたい」という志が、扉が開かれるまでの忍耐を可能にしたのではないでしょうか。
そして、「この、ロケットで世界に挑戦し、日本が世界一になってみせる!」
愛国心のカタマリのような糸川英夫は、帰国してロケットに取り組むのですが、なにせ何もないし何も分からない。
ロケットという言葉すらない時代だったのです。
「前例がないからやってみよう!」
そして、「すべての生物は逆境の時だけ生長する」というのが糸川のモットーになってゆくのです。
前代未聞でした、ロケットを水平発射するなんて。
砂山に向けて。
ところが、同じロケットを何度も打つことができるからペンシルは経済的このうえなし。
1メートルおきに並べた、和紙を張った輪っかにニクロム線を張り電気を流しておくのです。
すると、ペンシルがそれを破って通過する時にニクロム線が切れて電気が切れるので、輪っかと輪っかの間を通過した時間が計れます。
速度が計測されますし、加速や減速もわかります。
破った位置で、放物線が描け、切れ目の十文字で回転がよめるわけです。
ロケット打ち上げに必要なデーターは、このペンシルの実験で手に入ったと言われています。
カッパ、ラムダ、ミューとロケットは成長し、ミューの5型に乗って宇宙に飛び出したのが、太陽系探査機「はやぶさ」です。
いまでは、イプシロンという新型ロケットに進化しました。
糸川先生の「 前例がないからやってみよう!」 この言葉が私の人生の支えでもあります。
糸川英夫がすごかったのは、最晩年の10年間そばにいた私にほとんどロケットの話などしなかったことです。
焼き場で骨まで拾わせてもらった私は、ロケット博士としてではなく、日本テクニオン協会会長、組織工学研究所所長としての、
糸川英夫の弟子でしたから。
信州丸子町の焼き場には、宇宙研(現JAXA)歴代の所長、ロケット打上げ班長始め、日本の宇宙開発の錚々たる面々がやってこられ、
糸川英夫が歩いた道がどんなにすごいものだったのか思わされたものです。
10年ごとに仕事に区切りをつけ、手放す
「誰もできないことに手をつけ、道をつくるけど、後継者ができたら僕がやらなくてもいいでしょ。何かを始めるよりも、手放すことの方が難しいものなのよ」
そんな風に語っておられました。
最後の最後まで、前進し続けた偉大な科学者でしたし、哲学者であったし、詩人でもあり、文学者であり旅人でした。
日本人が発明した宇宙開発に関するもので唯一、米国ワシントンにあるスミソニアン博物館に展示されているのが、
HIDEO ITOKAWAのペンシルロケットです。
世界が認めた独創性。
こんなやんちゃな独創こそ、いま最も必要なことなのだと思えます。
糸川英夫の遺志を魂に接木して、独自のECOハウスと世界標準の街並をつくるとともに、
やまとこころのキャンドルサービスして参ります。
そのときの出逢いが、人生を根っこから変えることがあります。
善き出逢いこそ、人生の宝ですね。