奇蹟で人は変わらない
ある日スーパーマンに変身して、正義の味方となって世界を救う。
目が覚めたら、パーマン1号になっていた。
ウルトラマンに変身して、怪獣退治の使命を果たす。
マグマ大使を呼べる笛が手に入った。
・・・ どんな時代にも変身願望が人にはあるようです。
そんな人になったら、大きなことが成し遂げられる。
あんな人になれたら、自分も何かができる。
そういう気持ちが無意識のうちに湧いてくるのが人間のようです。
聖書にも、イエスはスーパーマンのように奇蹟をおこしたと書かれています。
水をワインに変えた。
目の見えない人の目を開けた。
生まれつき足が不自由で、立ったことのない人を一言で歩かせた。
水の上を歩いた。
極めつけは、死人を蘇らせた!
弟子たちは、それらの目撃者でした。
長崎の「あんでるせん」のマスター、久村さんは目の前で奇蹟をみせてくださいます。
https://www.akatsukakensetsu.co.jp/news/2014/01/15-01860.html
そのときは、人間には無限の潜在能力があり、願えば何でもできるような気になります。
しかし、しばらくすると日常の海の中に奇蹟は色あせた記憶となってゆきます。
スーパーマン願望、月光仮面がきて助けてくれる。
そのとき心の中では、自分なんて何にもできない・・・ 今のままの自分ではいけない・・・
と強力な自己否定が生まれているようです。
聖書は教えます。
あのイエスの弟子たちは、奇蹟を目撃しながら全員イエスを裏切り、逃げた。
あのイエスと共に暮らしながら、奇蹟は彼らを変えなかった。
でも、そのあと 彼らは変えられていった・・・
そこに、聖書の大きな秘密があります。
特別な奇蹟を起こしたところで、何の役にも立たないというのが本当のことのようです。
テレパシーよりも携帯電話の方が確実です。
肉体浮遊より飛行機の方が高く飛べます。
テレポーテーションより宅急便の方が沢山送れます。
世俗から切り離れ、仙人のように生きるよりも、人の群れの中で一所懸命働くことが、この次元の修行のようです。
あたりまえの生活の中で、日々必死に働くことがすごいのでしょう。
宗教団体に入って、休みの日には休むことなく集会をして大声で祈ることより、
毎日朝礼をし、会社で働く。
家事や育児に奔走する。
人との関係の中で、苦しみ悩み、そしてそれを解決してゆく。
そんな修行を喜んで行えるようになってゆく過程が、エピソードとなり、私たちが次の世界に持って行ける宝物になるのでしょうね。