創世記・・・初めに
11月15日、京都御所のとなりにあるKBSホールで出版記念講演会が開かれました。
「聖なる約束」 素晴らしいタイトルの本です。
著者は、舩井勝仁と赤塚高仁のふたり。
4月のイスラエルツアーで聖地を歩いた仲間たちとの約束が果たされた日でもありました。
それにしても、あのホールにある巨大なステンドグラス。
創世記、エデンの園の物語と、ノアの箱舟・・・上には、ヘブライ語の文字。
「ベラシット バラー エロヒーム エット ハ シャマイム ベ エット ハ アレツ・・・
初めに神は、天と地をお創りになった・・・」 と書かれているのです。
全国から集まってくださった600名の魂の兄弟姉妹、ユダヤの神話とヤマトの神話が混然となって魂に触れる瞬間でした。
短い時間でとても語りつくせない大きな流れは、きっと心に種となって撒かれたことと思います。
私の心の中にも、じわじわと新しい芽が出てきているのを感じるのです。
「ユダヤとヤマトが手を結ぶ・・・そのとき世界は真の平安へと導かれるだろう」という
わが師、糸川英夫の預言を継承する者として、今回の集いは実に意義の深いものだったと思えます。
魚に水が見えないように、鳥に空気が見えないように、日本人には日本が見えず人には自分が見えません。
イスラエルを通して見えた日本、ユダヤの民を通して見えるヤマト、そして、聖書を読み解き見えてきた古事記。
ヤマト人に願われていることを思い出すのは、まさに私たち日本人の神との「聖なる約束」でしょうか。
エデンの園で自然と一体になって生きていた、アダムとイブ。
園の真ん中には、知恵の木と命の木がありました。
他のどの木から実をとって食べても構わないが、その二つの木の実だけは食べてはならない。
「死ぬ」から、と神は人に言いました。
蛇にそそのかされたイブは、アダムに知恵の木の実を食べさせ自分も食べた。
すると「目が開いて」二人は裸であることに気がついて、葉っぱで隠した。
・・・聖書は神話、神話は事実である必要はありません、真実を伝えるためのメタファー(たとえ話)だから。
そこに書かれている「死」とは、肉体が亡びることではありません、
知恵がついて、人との差に気づいて、エゴが生まれた瞬間、人は神に背を向けるのです。
神から離れることを「死」と呼ぶのでしょう。
命の木の実を食べたら大変なことになると、神は二人をエデンの園から追放します。
永遠に死なない命の木に続く道には、燃える炎の剣がまわっていて近づくことはできません。
そうです、燃える炎の剣とは私たちの思考です、ぐるぐる回る思考です。
真理には、思考や言葉でたどり着くことはできないし、自我を持ったまま永遠の命を手に入れることはできないのです。
エゴを捨てて、人のために生きるとき安心立命、久遠の命の世界に入ってゆけます。
燃える炎の剣のような、思考が止まる時、私たちの心に平安が訪れます。
さて、エデンの園から追放された男には労働の苦しみ、女には生みの苦しみを罰として与えられるわけです。
だから、聖書の世界では仕事は労働であり罪であり苦しいものだと教えます。
西洋人が休みのために働くのは、罪からの解放という教えが働いているのだと思えます。
レジャーという言葉は、奴隷からの解放というのが語源のようです。
それが、砂漠の民、過酷な自然の中で生まれてきた神話であり、ユダヤ民族の魂のルーツでもあるのです。
ところが、私たちヤマト人にとって「働く」とは、はたを楽にすること、人のため世のために生きることは「喜び」でもあるのですね。
だから、誰も見ていなくても手を抜いたりしない。
「お天道様が見ているから」
創世記の始まりの部分だけでも、こんな風にヤマト人を思い出すことができます。
ユダヤの律法、そして歴史を学ぶうちに、ヤマトの神話、古事記がわかってくるのです。
そして、救い主、キリスト・イエスとはどのような存在なのか。
そんなヤマト人にとっての聖書を書かなければいけないねと舩井勝仁さんと、聖地イスラエルで話したことが本当になりました。
「聖なる約束」はあくまでも、始まりにすぎません。
ここからです、古事記と教育勅語を伝える本当の伝道が始まるのです。
そして、パウロと約束した「私のようにキリストを伝えよ」というエピソードが始まるようです。
それは来年長崎から・・・と、いなくんはメッセージを送ってくれました。
見えない世界では、何かが大きく動いているようです。