楠木正成を知る
今野華都子姉さんの、古事記の勉強会。
これほどの学びの場はほかにありません。
古事記を学び、日本の神話を取り戻すこと。
教育勅語を復活させること。
私は、国会で演説したいわホンマ。
さて、古事記を学ぶには、全国13か所で行われている古事記勉強会、
華都子姉さんの教えこそ、真の大和魂へのパスポートです。
是非ホームページで調べ、各地の華都子塾へ!
伊勢の道場では、明後日、華都子塾。
宿題は、楠木正成。
大好きな楠公さんのこと学び、やまとこころに火をつけます。
日本の歴史の中で、天皇から菊の御紋を使ってもよいと許された人物が二人あります。
一人は、西郷隆盛。
西郷は、自分一代のこととし、子孫に伝えることは許しませんでした。
そして、もう一人が楠木正成。
正成は、菊の御紋をそのまま使うなど畏れ多いと、
下半分を水の流れとし、天皇の御裾を清める菊水の紋として頂いたのです。
学校の歴史の授業では、1192年鎌倉幕府成立・・・イイクニ作ろう鎌倉幕府・・・などと、
年号と出来事を覚えることを歴史教育と教えられました。
歴史とは、英語でヒストリーと言います。
語源は、ヒズ、ストーリー 彼の物語。
彼・・・すなわち神の物語であり、神話を言います。
そして、そこに関わる人。
だから、聖書にも無数の登場人物が出てきます。
歴史に名を残す、偉人の生き方に私たちは学ばなければなりません。
時は、鎌倉時代、圧倒的な武力を誇る北条氏は朝廷を圧迫します。
後鳥羽上皇は、北条氏を討とうとするのですが、19万の大軍の前に朝廷は敗れ、
北条氏は何と、天皇の首を切ろうとしたのです。
このとき、天皇を守るため5人の臣が申し出て捕えられます。
5人は、鎌倉に連行される途中、御殿場で斬首されました。
これが承久の変(1221)で、その後幕府は後堀河天皇を立て、後鳥羽上皇を隠岐に島流しにします。
そのうえ順徳上皇を佐渡に、土御門上皇を土佐に移しました。
日本の歴史始まって以来、天皇に背き、三上皇の配流という暴挙に出たのが北条氏の鎌倉幕府でした。
後醍醐天皇は、国を立て直すために皇室に敵対する幕府を討つ計画を進められました。
天皇に登用された北畠親房は「神皇正統記」にこう書いています。
「大日本は神国なり。天祖始めて基を開き、日神長く統を伝え給う。
我国のみ此の事あり。異朝には其の類い無し」と。
2度にわたる計画は失敗し、後醍醐天皇は都を逃れ山城の笠木山に遷られます。
このとき、南に生える木の夢をみられるのです。
「木が南に・・・木・・南・・楠・・、楠木氏が朕を救わんとするか!」と読み解き、
河内金剛山の麓に住む楠木正成をお呼びになったのです。
元弘元年(1331)9月、直ちに天皇のもとに馳せ参じた楠木正成は、
命をかけて天皇をお守りすると誓いました。
しかし、この月、天皇は幕府軍に捕えられ、隠岐に流されてしまいました。
正成は、勤皇の狼煙をあげます
天皇の御裾をお清めするという意味を込めて、菊水の旗を立て、赤坂城、千早城を舞台に幕府軍と戦います。
幕府軍20万、対する正成軍わずか500。
城壁を登る敵に岩や大木を落としたり、油をかけて火をつけたり、頭脳戦で応戦します。
この正成の命がけの姿が、各地の勤皇の武士の魂に火をつけるのです。
そして、各地から勤皇の武士が決起します。
多勢をもって苦戦している幕府の威信は落ち、元弘3年(1333)後醍醐天皇が隠岐を脱出、伯耆の国(鳥取)の名和長年に迎えられると形成は一変します。
幕府側の足利尊氏が天皇の軍に参入、幕府の朝廷管理機関であった京都六波羅探題を5月7日攻略。
新田義貞も5月22日鎌倉をおとし、鎌倉幕府は滅亡しました。
後醍醐天皇は京にもどられ、年号を建武と改め、理想の朝廷政治を志されます。
そのときの大御心の御製です。
「世治まり 民安かれと 祈るこそ わが身につきぬ おもひなりけれ」
「朕不徳あれば 天 予一人を罪すべし 黎民何の咎ありてか この災いにあう」
ところが、武家政治を再興し、その権力を握ろうと野心を燃やす足利尊氏は、こともあろうか後醍醐天皇の皇子を鎌倉に幽閉し、
建武2年(1335)7月尊氏の弟、直義によって親王は殺されます。
この10月、尊氏は鎌倉に入って、朝廷に反旗をひるがえし、京都に攻めのぼってきました。
官軍はこれを防ぎますが、尊氏は一旦九州へと逃れ、体制を立てなおし、50万の軍勢を集めて反撃を開始します。
頭脳戦を得意とする正成は、尊氏の軍を京都に入れて兵糧攻めにし、一挙に潰す戦術を進言するのですが、
メンツにこだわる朝廷は、天皇を京から動かすことを受け入れません。
結果、正成は、兵庫で尊氏を迎え撃つように命じられ、ここに正成は、討ち死にを覚悟しました。
正成は、3800余りの兵を率い、京都と大阪の境の島本町、桜井に進み正成は500、弟の正季(まさすえ)は200、合計700の決死隊を編成します。
あとの3000余りは、11歳の息子、正行(まさつら)につけ金剛山に帰します。
これが、桜井の別れです。
父と共に戦って死にたいと願う正行に、正成は、最後まで後醍醐天皇に忠義を尽くす様、涙をぬぐって遺言するのです。
だから、お前はいま死んではならんと。
続く・・・・
待てないので書く
「今生では汝が顔を見んこと、これを限りと思うなり。正成すでに死すと聞きなば、天下は必ず尊氏の代に成りぬと心得べし。
されど命が助かりたいばかりに、長年の帝の御恩を忘れ、敵に降伏することあるべからず。
金剛山の辺に引き籠って、敵寄り来たらば、帝への忠義を尽くし、命を捨てて正しいと信じた志のために戦い抜け。
これぞ汝の第一の孝行ならんと心得よ。
正成は、潔く湊川に討ち死にし、もって義を千年にとどめたい。
もし後世に我が義に感じて勤皇の志士輩出し、完全に王政に復古するときが来たらば、その時こそ初めて正成の霊魂の慰められるときである」
正成も正行も、その場に居合わせた全員が涙を流し、親子は東西に別れました。
足利軍数万、神戸は湊川に攻めてきます。
官軍は、新田義貞が和田峠に陣を張り、正成は、700余で陣を張って迎え討ちました。
激突は16度、朝から夕まで、楠木軍は73名までになっていました。
正成は、弟正季と向かい合い、正成は、正季にこう言ったのです。
「正季、人間は死ぬ瞬間の一念が最も大事という。
今、お前は何を思っているか」
正季は、かんらからからと笑い、
「兄じゃ、ワシの今の願いは・・・七回までも人間に生まれ変わって、朝敵を滅ぼしたいということじゃ」
その言葉に、正成も心から嬉しく、
「人を滅ばすということは、神仏の道からすると罪深い罪悪なれど、ワシも一緒じゃ」と言います。
兄弟は、互いに刺し違えて死にました。
正成43歳でした。
正成兄弟が残した誓が語り継がれいます。
「七回生まれ変わっても天皇を守ろう」
それが、七生報国 です。
楠木正成、真のヤマト人。
尊皇の志士。
この熱が、明治維新のエネルギーへとつながってゆくのです。
歴史を知るということは、年号と出来事を記憶するのではなく、人の物語を魂に刻むこと。
そして、民族に流れる美徳を受け継いでゆくこと。
ヤマトよ永遠にと願わされてなりません。
偉人伝、伝えてゆきたいものですね。