人間曼荼羅
11月15日の京都KBSホールでの「聖なる約束」出版記念講演会、
ずいぶん昔のことのように感じますが、2週間前のことなのですね。
想像を絶する速さで地球は回っています。
振り飛ばされないように、しっかり地に足をつけていないといけません。
私たちが、この地球という星を選んで、日本という国に肉体を与えられて生まれてきたのも魂の学びのためです。
何の学びかというと、つまるところ二つ。
「経済」と「人間関係」
アフリカのブッシュマンに生まれたら、もうちょっと違うテーマもあったのかも知れませんが、
現代の日本に生まれることを希望して、許可されてきたのですから、ちゃんと学んであの世に帰りたいものです。
イエローハットの創業者で、掃除の神様、鍵山秀三郎さんからお電話をいただきました。
「聖なる約束」とても褒めてくださいました。
そして、たくさんの注文をいただきました。
多くの方とご縁をつないでおられる鍵山さんです、いろんなところから本が送られてくるでしょう。
そのような中で、私のような、いと小さき者に心を寄せてくださること感激です。
25年以上のお付き合いになりますが、お便り一つにしても丁寧に手書きで書きおくってくださいます。
心から尊敬できる方です。
教育勅語のCDも、たくさん買って、ご自分の講演会で使ってくださいます。
そのことが、私にどれほど勇気を与えてくれているか、感謝でなりません。
ふりかえってみると、ここまでの人生、数えきれない出会いと別れを繰り返しながら、ご縁のおかげさまで今日まで生きてきました。
京都の講演会のときステージから見えた600名近い魂の兄弟姉妹の顔・顔・顔・・・それがなんとも尊いマンダラに見えました。
そしてその背後には目には見えませんが、会場に来られなかった兄弟姉妹の念いがその場に満ち満ちて、至福のひとときとなりました。
いいえ、私が喜んだという次元の話ではありません。
参加してくださった皆さんが、この世を生きていることの懐かしさに胸を熱くし、
そして、「聖なる約束」を果たすため呼び集められた同志だったことを思い出す集会だったようです。
あの場で、旧約聖書・創世記のステンドグラスを見ながら、過去世、イスラエルで一緒だったことを思い出した人も多くいたように思えます。
「赤塚さんは、すごい人脈をお持ちですね」
ときにそう言われます。
確かに、様々なジャンルでご縁をいただいた人間関係で私の人生は成り立っています。
「人脈」という言葉には、私は少し違和感をもつのですが、あえてここではその言葉を使います。
書店に行けば、「人脈」づくりの本が溢れています。
「人脈」づくりのための交流会も盛んに行われています。
それらの目的は、「人脈」をつくり、それを活用し、自分の人生を豊かにすることでしょう。
そこで注意したいのが、「自分の人生」を豊かにするために「人脈」は活用するものだという欧米型の発想なのです。
私たち、ヤマトの民は「袖触れ合うも他生の縁」と、出逢いの背後にある目に見えない大きな力を感じて生きてきました。
だから、出逢いはいきさつをこえていることを知り、天からの恵みだと手を合わせるのです。
おかげさま、と。
そして、出会ってくださった相手のために何ができるのだろうかと、心を配ることが第一だと思える民族なのです。
日本人として生きるということは、他人のために生きると言ってもいいでしょうか。
だから、人脈とは、自分のためにあるのではなく、相手のお役に立たせてもらうためにあるのだというのが、
私たち、ヤマト人がずっと大事にしてきた美徳です。
わが師、糸川英夫博士は、私に「先縁尊重」という人生で最も大切な教えを打ちこんでくださいました。
人に出会うときには、必ずそのご縁を作ってくださった方が存在します。
人に出会い、幸せを感じたら、その人を紹介してくれた人への感謝を忘れてはいけないというのです。
ひとつ前の縁を尊重することを忘れなければ、人生は豊かになるよと糸川先生は教え、実践して見せてくださいました。
自力で人に会い、自分が縁を作ったのだと言う人の周りは驚くほど寒い人間関係の世界が広がっています。
その世界に共通するのは、「好き嫌い」と「損得勘定」。
人脈というものが、その物差しでしか測れなくなってしまっています。
何かの目的のために出会いを「利用」するとき、一つの出会いの背後にある無限の宇宙が見えなくなってしまいます。
出会いは奇蹟です。
一見無意味に思えたり、それどころか、どうしてこのような人と出会わなければならないのかと嘆くような縁であっても、
そこには、いきさつを超えた大きな意思が働いていると思えるようになりました。
さて、「先縁尊重」ですが、まず気をつけなければいけないのは、紹介者を飛びこさないということでしょうか。
私は人に頼みごとをするときは、その人を紹介してくれた人に頼むことにしています。
紹介してくれた人が、直接言ったらいったらいいよと言ってくだされば、直接言ってもいいでしょう。
頼みごとの結果は、紹介者に報告します。
おかげさまで、って。
私たちが、誰かに会うというのは、必ず紹介者がいるのですから。
もしも、飛びこして万が一トラブルになったら紹介してくださった方のメンツはつぶれ、人間関係は崩壊します。
勝手にそんなことしたら、紹介者も手の打ちようもないわけです。
もし、私がその紹介者の立場だったら、飛び越すような人に二度と人を紹介しようとは思わないでしょう。
また、うまくいったときにも「○○さんがお世話になってありがとう」と、紹介者としてお礼の言いようもありません。
「あの人の紹介だから、大事にしよう」と思ってくださっている相手に、お礼も言えなければ、飛び越した人は紹介者の顔に泥をぬっていることになります。
大事な人に大事な人を紹介するのです。
人に人を紹介するというのは、容易なことではありませんし、命がけの行為だと言ってもいいかも知れません。
なぜなら、「紹介」というのは、この地球で学ぶべき「人間関係」が生まれるきっかけづくりの聖なる儀式だからです。
ひとこと紹介者に声をかけるという行為が、人生に花を咲かせるのではないでしょうか。
それほど、紹介者、先縁とは大切な尊いものなのです。
これを繰り返してゆくとき、信用も高まり、素敵な人間曼荼羅が描けるのだと思います。
そして、人と人を橋渡しするときに、私が最も大事にしていることは、利害・損得を入れないことです。
初対面の人同士の間に入って、場を作り、間をつなぐ。
仲良くなって欲しい、きっとお互いにいい友達になる・・・そんな純粋な気持ちです。
すると、不思議なことに自分もそういう場に呼んでもらえる機会が増えてきます。
いつしか驚くべき人間曼荼羅が描かれてゆきます。
人生で、これ以上嬉しいことはありません。
もちろん、経済があるから人財産に恵まれるという側面はありますが、
経済の目的のために人を使うのと、人のために経済を使うのとは全く違うといえましょう。
「自分の人生を豊かにするために、この人脈をどうやって活用しようか」
などと、考えた瞬間、曼荼羅は砂曼荼羅となり消え去ります。
また、知り合ってすぐ営業に来る人があります。
結果が経済とつながることは、素晴らしいことですが、ほとんどの人が損得勘定の物差しで出会いを測ってしまうようです。
勿体ないことです。
無限に広がる曼荼羅の入り口で、その人の新しく広がるはずの人脈は雲散霧消してしまいます。
人脈を作ろうとして、人脈が作れない典型といえましょうか。
人脈が、モノを売る対象にしか見えないのでしょうね。
もちろん、その人に知人を紹介することはありません。
「○○さんを紹介してください」 「○○○さんに会わせて欲しい」
そんな依頼がよくあります。
私が動くのは、その人と紹介する相手が会ったとき二人が幸せになるだろうか、
そして、この人は関係を飛び越すような失礼なことをしないだろうか、という2点がクリアできたときです。
うまくいかないときの方が多いのですが、そんな体験を繰り返しながら人は成長してゆきます。
人と会うことは本当は苦手な私ですし、大変な人見知りです。
だからこそ、人の気持ちを必死で探り、相手を喜ばそうと生きてきました。
何べんも紹介したことを悔いるような出来事を通ってきましたが、
出会った同士が人生を変えるほどの関係になってゆくのを見ている喜びがあるから、これからも人と人とをつなぎ続けることでしょう。
私は、伝道者として生きていきます。
それは、宗教家になることでも、説法をして歩くことでもありません。
当たり前の暮らしをし、経済活動を営み、出会いの不思議に手を合わせるのです。
住めば住むほど元気になる家、美しい町、家族の笑顔を守るために住宅を通して幸せを伝道します。
そのときの出逢いが、人生を根っこから変えることがあります。
そんな出逢いを演出する伝道。
一人が変わる、世界が変わる。
人と人とが出会うということは、神様の聖なる約束。
13年前「私のようにキリストを伝えよ」とシリアのダマスカスで聞いたパウロの声は、今も私の胸で響きます。
そして、伝道師としての歩みが続いています。
一人ひとりの中に宿る神様同士の出逢いの仲介をさせていただいているのだと考えると、
人間曼荼羅は心の中で美しく光り輝いて闇が消えてゆきます。
人生って嬉しいものですね。