何ごとのおわしますかは知らねども
平安時代の僧侶であり歌人でもあった西行が伊勢神宮で詠んだ歌を、いつも五十鈴川の手水場で思い出します。
当時は、僧侶は神域に入ることが許されず、遠くから伊勢の御神域を仰ぎ詠んだ歌です。
「何ごとのおわしますかは知らねども
かたじけなさに涙こぼるる」
これが、ヤマトの人間の心ですね。
目には見えない大きな存在を感じる心、その心こそやまとこころと言ってよいでしょうか。
神宮の御正殿は絹の御帷(みとばり)で隠されています。
月嘗祭、神嘗祭のときも神官さんたちが中で何をなさっているのか覗くこともできません。
ただ、漏れ聞こえてくる雅楽の音に耳を傾けるだけです。
これみよがしにきらびやかな神殿をつくり、神の像を拝む信仰ではなく、
我がやまとこころは、神は見るものではなく、感じる、畏れ多いものであることを知っています。
合理主義、物質主義の西洋文明では決して到達できない境地と言えるかも知れません。
金子みすずも「星とたんぽぽ」でこう言っています。
「青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ」
目には見えませんが、いまもありありと働き、私たちを導いてくださっている神様に手を合わせます。
見えないことを「ない」ことにするのが「エゴ」です。
知らぬ間に作り上げた「私」という錯覚が、見えないものをないものにしてしまいます。
すべてつながっている世界から、ちぎれてゆき自ら分かれてゆくのでしょうか。
それが自分なのですね。
分ける世界から、一つの世界へと還る時がきています。
そのお手本を世界に示すのが、ヤマト人の役割であり、今回この時代に日本を選んで生まれてきた魂のやるべきことではないでしょうか。
松尾芭蕉が伊勢神宮を訪れたときの詩です。
「何の木の花とはしらず
匂哉(においかな)」
西行に対する見事な返歌です。
涙こぼるる西行も、霊の息吹をにおいと呼んだ芭蕉も素敵過ぎじゃありませんか。
この木何の木? 気になりすぎる木ですから。
今日はわが師、糸川英夫博士の命日です。
先生を偲び、先生の声に聞き、心を天の先生に寄せて参ります。
やまとこころに火を燈して今日も一日まわりを自分から明るくさせていただきます。