天才の孤独
明るくなるのがずいぶん早くなってきました。
一雨ごとに温かさがやってきます。
季節はめぐり、春です。
こんなときは、ふと何気ない場面を思い出したりします。
東京の糸川博士のお宅に通っていた頃、
泊めてもらった翌朝は、新聞受けから新聞を持ってきて、
広告を全部取り除いた後、新聞を読みやすく積んでおきます。
起きてこられた糸川先生は、毎朝必ず納豆とご飯。
一気に食べて、新聞を読み始めます。
産経、朝日、毎日、読売、東京、日経、それに英語の新聞
すごいスピードでめくってゆくのですが、ところどころ赤鉛筆で印をつけます。
7誌読み終え、どの新聞がどんな視座で記事を書いているのかという違いを話してくださいました。
「新聞から教えてもらおうなんて思っちゃだめよ。
自分の意見をまず持って、その視点からそれぞれの新聞の意見を見るの。
新聞で信じていいのは、日付だけなんだからね。」
チェックした記事を切り取って、スクラップブックに貼ります。
その膨大なデーターの蓄積の中から、糸川英夫独自の発想が生まれるのです。
当時日本テクニオン協会はじめ、5協会の会長をしていた糸川博士。
ほぼ毎日、会員向けにイスラエルの情報を翻訳し、手書きでニュースレターを送ってくださいました。
封筒の宛名もアンさんが手書き。
手作りの温かみがなければ、情報は相手の心に届かないからと言われる先生でした。
どんなに多忙であっても、このニュースレターがとぎれることはありませんでした。
あるとき、一緒にイスラエルに旅し(当時のイスラエルツアーは2週間でした)成田から、糸川先生のお宅に帰りつきました。
30代の私でしたが、もう疲れ果てて動くのもしんどい状態。
糸川先生は、旅の間ずっと通訳や講演やガイドをしてくださっていたのですから、お疲れも私の比ではないはずです。
80歳近い先生が、荷物を置くと出かけようとされました。
どちらへ?と尋ねると、テクニオン協会の事務局へいってニュースレターを書いてくると。
明日でいいではありませんか、という私に 「ぼくの人生に明日はありません」と言って出かけて行かれたのを思い出します。
糸川先生は、天才と呼ばれるのを嫌いました。
「ぼくは努力家なんだよ」というのが口癖でした。
「努力が人に見えない努力家のことを天才と呼ぶのだったらいいけどね」ともいわれました。
糸川英夫という人に見えないところで、人の何倍もの努力をし、
人前では何ごともないようにさらりと生きてゆく「天才」との10年間は、私に大切なものを植え付けてくれたのですね。
「前例がないからやってみよう!」
自分にしか咲かせられない花を、咲かせましょう。
そうです、春です、太陽がいっぱいです。