あれから17年、イスラエルツアーの友の家
ずっと前に一緒にイスラエルに行った仲間が、現場完成見学会に来てくださったのは3月1日のことでした。
マホちゃん先生が中学校一年生のときでしたから、いまから17年前のイスラエルツアーでした。
糸川英夫博士が亡くなって、遺骨を抱いて砂漠に散骨したときでしたね。
糸川先生の代わりに、ベングリオン大学の総長や学長、教授たちを私たちのホテルに招いて、一緒に食事会をしました。
その時のスピーチを、英語でやったら糸川先生に失礼な感じがして、
日本語でやったら、通訳を通すので熱が落ちそうな気がして、
こともあろうか、ヘブライ語でやろうと決めた無茶な赤塚でした。
キリストの幕屋へヘブライ語を習いにゆき、スピーチをヘブライ語に翻訳してもらって録音して、暗記。
なんと、イスラエルでユダヤ人の大学の先生方に対してヘブライ語でスピーチをするという、とんでもない冒険をしたのでした。
イスラエルの大学や研究所は、世界中のユダヤ人が支援して成り立っています。
ところが、ユダヤ人のいない日本がイスラエルの研究所を支援するのはすごいことなのだと彼らは言いました。
糸川先生は、ユダヤ人の発想力がなければ日本の産業も研究も今日のように発展することはなかった、と考えてたので、
モノマネをして金儲けをした日本人を代表して、ユダヤに敬意を払い、交流することでユダヤ民族に感謝を示したいと思っていたのです。
だから、毎年何度も日本人をイスラエルに導かれたのでした。
糸川英夫が亡くなって、ベングリオン大学との繋がりはどうなってしまうのかと思っていたが、赤塚のスピーチを聞いて感動した!と
大学総長は私に飛びつかんばかりに抱きついてきました。
「友情は試された、そして、勝利した!」と泣きださんばかりでした。
ただ、大変だったのはその後で、皆さんが私にヘブライ語で話しかけてくるのです。
ただヘラヘラ笑って、トダラバ、トダラバ(ありがとう)と言っていた私でした。
さすがにあのスピーチは全部暗記で、ヘブライ語なんかわからんーーとは言えずに。
それから、チンの荒野を見下ろす丘にある、ベングリオンのお墓の横に糸川先生の遺骨を埋めました。
私にとって、イスラエルの旅は糸川先生のお墓参りでもあるのです。
さて、その記念すべき旅に一緒していた名古屋の若き女性が、今や一児の母となって現れてくれたのです。
それも「住めば住むほど元気になるECOハウス」の完成体感見学会場で。
あら、子供さんがアトピーじゃありませんか。
なんと、環境を変えたいとずっと考えていて、身体にいい家を探していたって?
お母さんも同居される?
任せなさい! イスラエルツアーの団長は、糸川英夫の遺伝子を受け継ぎ、前例のない究極の健康住宅にたどり着いたのですから。
と、いうわけで名古屋で赤塚建設が建てさせていただくことになりました。
嬉しいですね、17年の時を経てそれぞれに人生の旅を続けながら、こうして再会し交わってゆく。
限りある人生の中で、誰と出逢い、誰と一緒に旅をするかは何よりも大切です。
それを生み出すのはすべて「私の心」
花には蝶
ウンコには蝿 ・・・ですもの。
逢っている時も、逢えなくなった時間もそれぞれが尊く思えます。
糸川先生との出逢いは、本当に大きかったのだと改めてしみじみかみしめる今朝です。