伊勢への道
2015.06.23
今月は今日で8回目の伊勢です。
何が起こっているのかわかりませんが、伊勢へ、伊勢へと呼ばれます。
五十鈴川での2回の禊ぎも必要、必然のことなのでしょう。
来年の3月いっぱいまで、毎週火曜日は皇学館大学の学生として通学しています。
明治天皇の玄孫、竹田恒泰先生の「現代人権論」、後期は「日本国家論」です。
90分の授業ですが、大学の授業がこんなに面白いなんて驚きなのです。
娘より若い学生達に混じって、いつの間にかおぢさんになっている私が、必死でノートとっています。
昨日の授業は、「主権国民」とはどういうことか・・・
国民とは、2種類あります。
一つは、主権者としての国民。
もう一つが、主権により支配される国民
私は、この授業を受けるまでは、自分は主権者たる国民だと思っていました。
竹田恒泰先生から、
「あなたがたは主権者である実感ってあるの?」と問われ、考えてしまいました。
国民の意見はバラバラです。
選挙でどれだけ僅差でも、負けた方の意見は通らないのが民主主義です。
大阪の都構想も反対派が勝ったわけですが、半数近くの人たちが賛成しているわけです。
国民が主権者だと言って、生まれながらにして一定の権利を与えられているという考え方も、
よく見つめた方がいいようです。
我々国民は、実は主権者なんかじゃなく、主権によって支配されているのではないでしょうか。
「主権たる国民」というのは、あくまで法概念であって、実態などないのです。
人としての国民は、すべて被支配者です。
もちろん、内閣総理大臣であろうと。
国会議員は国民の代表ですから、我々と同質なものです。
ところが、象徴とは異質なものなのです。
姿形のあるものを見ることによって、見えないもの(概念)を連想させるものを象徴と呼びます。
富士山は、岩の塊、大きな山です。
しかし、そこに日本が見えます。
国旗は、ただの布です。
しかし、日の丸は日本を象徴するのです。
桜は春の象徴です。
桜には触れますが、春には触れません。
ニキビは青春の象徴です。
ニキビには触れますが、青春には触れません。
そうです、
主権たる国民の姿とは、天皇の御姿なのです。
日本国憲法第1条「天皇の地位・国民主権」
天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
法概念として実体のない、「主権者たる国民」の象徴が天皇だと憲法の一番最初に書いてあった。
自分が「主権たる国民」だなんて勘違いして、働けるのに働きもせず、生活保護受けるようなワガママな国民を生むのも、
国民が主権者だなんてウソを教えるからでしょう。
私たちは主権者なんかじゃない。
日本は、天皇の国です。
しかし、イスラエルに行ってみて、国がなくなった民族がどんな目にあうのか知らされました。
人権というのも、生まれながらにしてあるものではありません。
国家に守られ、国家が存在するからこその人権であることを知りましょう。
フランス、英国、米国と対比しながら、日本を知る。
しかも、伊勢で。
さて、28日は中山靖雄先生のお別れ会です。
新刊「続聖なる約束・ヤマト人への手紙」出版されます。
中山先生の祈りを届けるためにも、この本は広まりますようにと念じています。
伊勢の風を吹かせる時です。
来年のサミットは、世界へとその風が吹くのです。
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