裏表のある人
2015.08.30
「私は、子供にも、際限なく深く裏表のある人間になって欲しいと思うのである。
裏表のない人間という言葉は、本来は宗教に起因した美学から出たものである。
誰にも見られなくとも、神を常に意識し、神に向かって、強烈に自分自身を晒し続けて生きることだけが、
本当に裏表のない人間ということである。
心と言葉、心と行為とがまったく同じ単純人間など美しくもなければ、偉大でもない。
(中略)
裏表を意識し、その実態を知る時、子供たちは改めて人間の哀しさと優しさを知るであろう。
その長い迷いの後に、明確な裏表の何を意味するかを知りつつ、それに従う時、
彼は初めて精神をもった「人間」になる。」
・・・曽野綾子「人間の分際」
曽野綾子さんが、南アフリカで白人と黒人の人種差別発言をしたと国内外から大バッシングを受けたのは記憶に新しい。
産経新聞にこう書いたのです。
「もう20〜30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、
私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」
当然のことです。
イスラエルにいくと、エルサレムではユダヤ人の地区、イスラムの地区、キリスト教徒の居住区、
はっきり分かれています。
道を一つ隔てると、まったく空気感が変わるのを肌で感じます。
言語や文化、とりわけ宗教を共有する民族が固まって住むのは常識です。
だからといって、差別ではなく、共存しやすくなるのですから。
ニューヨークにいくと、中華街、イタリア人の街、はっきりと分かれていました。
横浜の中華街が差別地区だなんて思ったこともありません。
曽野綾子さんの発言をダメだという連中は、外国人にも参政権を与えようと言っている、気の狂った人たちかもしれません。
大声で人を裁くことなど、私にはできません。
寿司屋で私が頼んだ後で、同じものを頼んだ人に大将が
「ごめんなさい、さっきので最後でした」
と言ったとしたら・・・ふふふ、と心の中でほくそ笑んで美味さが倍増するのが私です。
「私はいいですから、どうぞあの方に差し上げてください」
などと絶対に言わないのです。
人前では「手のひらは、もらうためよりあげるため」とか「命は人のために使いましょう」などと、
偉そうなことを言いつつ、裏へ回るとこのざまです。
そんな裏表のある男が、人生のどこかで
自分を捨てて、誰かのために、何かのために命をかけることがあるのかもしれない・・・
と、思うところにささやかな希望があるのです。
あきらめて、逃げることばかり上手になった私だけど、自分だけはあきらめるわけにはいかないのであります。
裏表をみせながら、散る紅葉のように、
はらはらと生きていたいと思うのであります。