赤塚高仁ブログ

神は愛なり

2015.10.26

 聖書に「神は愛なり」とあります。

愛とはなんでしょう。
 ルカ伝15章に放蕩息子の話が出てきます。
ある金持ちに二人の息子がありました。
真面目な兄と、遊び人の弟です。
弟は、父の財産の半分をもらい家を飛び出します。
放蕩の限りを尽くし、まわりから人もいなくなってしまいます。
食うにも困り、父の雇い人の一人にでもしてもらおうと帰ってくるのです。
すると、父は帰ってくる息子を見つけ、
駆け寄って息子を抱きしめ、口づけをし、こう言います。
「ふとった子牛を連れてきなさい。
食事をしよう。 近所の人たちも呼びなさい。
死んだと思っていた息子が生き返ったのだから」
 父を裏切って、父に背を向けて、欲望の限りを尽くそうが、
父は一方的にに息子を愛し、悔い改めた息子を無条件で受け入れてくれます。
やがて祝宴が始まります。
すると、兄が不貞腐れて文句を言うではありませんか。
世間体を気にし、父に気に入られるように生きてきた兄が、自分がかわいそうではないかと言うのです。
「真面目に生きてきて、財産も守ってきたのにちっともいい目を見たことがない。
それなのにこの無責任な弟は、何もしないどころか、財産を食い潰したのにこんなご馳走を食べている。
自分はこんなご馳走を食べたこともない。
金を使い果たして舞い戻ってきたのに、祝宴を開いてもらえるなんて、
そりゃないぜ」
 ところが、父はこの兄を叱るのです。
イエスのこの例え話は、芥川龍之介に「史上最高の短編小説」と言わしめました。
真面目に生きてきた人には、どうして兄が・・・と驚くでしょう。
何十回も読んで、ようやくイエスが伝えたかったことがわかるようになってきました。
人から後ろ指をさされるようなことはしていない、と胸を張る人は愕然とするでしょうね。
私は神様に愛される資格があると、自信満々の人が神様から叱られる場面なのですから。
不真面目の極みの弟が抱きしめられているのを嫉妬する兄。
人の心の中には、どちらもありますから。
 イエスは、この譬え話を通して
「人生を無駄にするには、二つの方法がある」と言いたかったのです。
一つは、
「自分が勝手に作り上げた『私』という幻想に飲み込まれ、エゴの突き動かすままに生きる。
無限に続く先祖からつながる、いまここにある命。
そして、その先にある天と繋がっていることを忘れ、自分のことしか考えなくなること。
それは、親を悲しませ、まわりを傷つけ、持って生まれた才能をダメにして、
せっかく生まれたのに世界に貢献することができなくなってしまう。
これはよくないことだ。
もう一度父親に受け入れてもらうには、悔い改め、生き方を変えなければならない」
もう一つは、
「この世の常識にしばられ、世間体や、常識に合わせることで神から離れることがあるということ。
真面目に生きることと、豊かに生きることは違うのだ。
喜んでいなければ、全く、何にもならないのだ。
神は陽を浴びて笑い、風のささやきのように歌う。
笑いもせず、歌いもしないものは神の心に背いている。
神は美しい。
神は喜びである。
だから、喜びを見出せず、見出そうともせず、
笑いを与えようともしないものは、神を侮辱しているのだ。
行いだけを見れば、正しいもののように見えるが、その心はまちがっている。
律法学者や宗教家たちも不幸なものだ。
経典に書かれたことを守ることに躍起になっている。
しかし、神の喜ぶことをしないどころか、
神に逆らっている。
人は、この世に生を受けた限り、たとえわずかであってもまわりを明るくしなければならないのだ。
少しでもこの世を楽しくしなければならないのだ」
 それがわが子の幸せを願う父、すなわち神の願いなのだとイエスが言ったことなのだと思えます。
聖書の中で一番多く読んだのが、ルカ伝15章でしょうか。
イスラエルにも13回行き、現場で読み込んだ聖書です。
足の裏から染み込んできた聖書が、私に語りかけてくるのです。
 イエスは、差別されたり虐げられた人々と過ごし、「大食らいの大酒飲み」と呼ばれています。
不食して自分の体を守ることより、楽しい時間をともに過ごすことで、まわりをなごませ、生きていることの懐かしさに喜びを味わうことを共に感じた人の子でした。
陰気な顔をして、自分は間違っていないと主張する宗教家たちを徹底的に避難しました。
彼らが激怒するのを見て、人々は喝采したのです。
命は苦しむためでなく、喜ぶために与えられたのだと話すイエスをみんな大好きになりました。
 聖書が深刻に書き残している場面でも、きっとその時イエスは笑い飛ばしながら言ったに違いありません。
文面や、文字ではその場の空気を全部伝えることはできません。
でも、聖書を向こう側から読むと 暖かな風が吹いてくるのです。
病気が大好きで、病気でいることで人から大切にされていると信じている人は、
自分が立てないことで人から注目を集めることを知っていたのでしょう。
この人は、病気が仕事になっていたのです。
 「起きて歩け」
 イエスの一言で彼は立って歩いたのです。
超能力なんかじゃありません、 でも、立てなかった男の不幸はここからかも知れませんね。
自分を憐れむことができなくなってしまったのですから。
 イエスが、とても近くから伝えてくれている気がします。
 さあ、今日は 皇学館大学で竹田恒泰先生の「日本国家論」の講義です。
そのあと夜は、神戸に移動して大好きな 光田秀兄とのコラボ講演会。
光田なおこさんが設定してくれた大事な場です。
イエスが降りてきてくださいますように、来てくださる一人ã
²ã¨ã‚Šã«ã‚¤ã‚¨ã‚¹ãŒç›´æŽ¥å‡ºä¼šã£ã¦ãã ã•ã„ますように、
そう祈りながら移動して参ります。
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