赤塚高仁ブログ

無知の知

2015.12.02

糸川英夫博士の家で、朝食を食べ終わって、糸川先生と二人っきりになったときのことでした。

たしか、先生は82歳だったでしょうか。
いまから20年近くまえのことですね。
「あのね、赤塚さん、
 僕はね、少しあなたより勉強してきたと思うの。
 それでね、やっとわかったのはね、
 僕はね、何にもわかってない、ってことよ」
 
 
返答できませんでした。
糸川先生が何気なく言われたその一言の大きさがわかるのに、
20年の時が必要だったようです。
もちろん、今でもすべてわかったわけではありません。
 
古代ギリシャの哲人、ソクラテスが言った
「自分が知らないという事実を知っている」という「無知の知」
それがどれほどすごいものなのか、
ようやくわかりかけてきたようです。

 

愚かな私は、自分の未熟さを棚に上げて、わかったふりをしたり、
誰かに異議を唱えるのが常だったようです。
己の未熟さに気づかない状態を「無明」と言ったのは仏陀です。
仏陀は、無明を「そこに闇があるのではない、光がないのだ」と説きました。
光とは、闇を見据え、そこに降りて自分を知ろうとする純粋な心のことでしょうか。
底知れぬ闇の中に、かすかな光のきざしを探し続ける勇気でもあると思えます。

 

私たちの生まれてきた目的の一つは、「学ぶ」ことでしょうか。
そしてすべての学びは、「気づき」から生まれます。
気づきのない学びなどあり得ません。
良きにしろ悪しきにしろ、経験を通じて気づき、そこから学ぶのです。

 

神様は、私たち自らが気づかないうちは決して介入なさらないようです。
助けようとはなさいません。
なぜなら、気づきの妨げになれば、この世に生きてきた意味もなくなってしまうからです。
自分で自分に向かい、自分の闇を見据え、
闇に降りてゆくとき、初めて神様は伴い、導いて下るのかも知れません。
それもせず、ただ「神様助けて」と祈るのは無駄なことでしょう。

 

自分が何も知らないという事実に気づき、
本当のことを知ろうと努力が始まると、
神様は、出会いなり、インスピレーションだったりを通して手助けしてくださるようです。

 

無明の状態の人には、気づきも、学びも、神の助けã
‚‚一切来ません。
だからこそ、自分が何も知らないと自覚することがすべての始まりだと思えてなりません。
 
 
 糸川家の茶の間での何気ない一言は、私の人生を根っこから変えてしまうほどの教えだったようです。
それに気づけるまで、20年もかかった不肖の弟子を先生が笑ってみていてくださることを願います。
 
 
 
今日は、東京に向かいます。
魂の友、舩井勝仁さん、出路雅明さんと鼎談。
そして、その模様がDVDとなりフナイから発売されるそうです。
謙虚に、素直に向かいたいものです。
 
糸川英夫という、やまとこころの結晶のような魂を伝えるために、
私は無垢な水路となりたい。
 
イエスキリストの霊を流せる、パウロのような祝福の水路となりたい。
 
 船井から発刊される、DVDどうぞお楽しみに。
 
 
 
 
 
 
 
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