赤塚高仁ブログ

好きよりもっと大好きの世界を生きる

2015.12.13
 「聖なる約束」にサインをするとき、「如己愛人」と書かせていただいています。
 
 「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」という、聖書の中でイエスが言ったことばを表したもので、長崎の永井博士が座右の銘としておられました。
 
この言葉は、旧約新約の両聖書を貫いて、もっとも大切とされている教えなのです。
自分を愛するとは、どういうことなのでしょうか。
魚に水が見えないように、人には自分が見えません。
自分を愛するとは、一体どういうことなのでしょうか。
それがわからなければ、きっと人を愛することもできないのでしょう。
 
愛とは、相手を自分と同じように大切にすることに尽きるように思えます。
全てはつながっている真実を知ることに尽きるのではないでしょうか。
 
良きにせよ、悪きにせよ、相手に見えているのはすべて自分の中にあるものです。
自分の中にないものは、見える筈がないのですから。
「ああ、なんてあの人はわがままで傲慢なんだろう」と感じたら、
わがままで傲慢なのは、私です。
「何て目立ちたがりで自分勝手な人だろう」と思えたら、
自分勝手な目立ち屋は、私です。
 
 その視座が本当に自分の中で不動のものとなった時、自他の境がなくなるのかもしれません。
相手を自分として見つめ、大切に思えるのかも知れません。
だから、自分を本当に好きにならなければ何も始まりませんね。
自分を好きになり、自分を大切にして、その自分が誰かのために役立ち生きようとするとき、
熱い想いが湧いてくるようです。
 
そんな、人を動かす"やたらに熱い思い"はどこからくるのでしょう。
 何があっても自分の大きな原動力になるものは何なのでしょうか。
かっこつけて、分かったようなことを言っても伝わりません。
そんな"ウケ"をあてこんだ発言と、自分の全存在がかかっての発言とはどこが違うのでしょうか。
 
 好きなことと大好きなこと、
大切なことと一番大切なこととの違いはどう見分けるのでしょうか。
天命を生きる人と、人の期待に合わせる人とはどこが違うのでしょうか。
 自分の年齢より若く見える人と、老けて見える人はどこが違うのでしょうか。
 建前の謙遜と、本物の謙虚はどこが違うのでしょうか。
 
答えは簡単明瞭、一目瞭然です。
頭と気持ちで練り上げた自分知の正当化から出てくる作為の言葉には臭い匂いがする。
「さくい は くさい」のです。
 
大好きなことに命を燃やしているとき、
天命をただひたすらに生きているとき、
それを見ている相手の命に火が灯り、エネルギーが立ち上がってゆくのです。
それを体感すればいい。 
 
 イエスキリストが多くの奇跡を為したとき、エネルギーがエネルギーに共鳴しています。
病が治ります。
死人も蘇ります。
 
 それは、決して特別な誰かにしかできないことではないはずです。
私たちは、誰もが神の子であり、特別な存在です。
誰にもできない、誰にも決して負けない強い力を、人は一つずつ持ってこの世にやってきました。
それを思い出しましょう。
それが何だかわからないようにしていただいていますから、まず、目の前の頼まれごとを喜んでやりましょう。
神は細部に宿ります。
小さなことを、誰にもやれないようなやりかたでやってみましょう。
気がついたら、神様は導いてくださっている。
一切をお任せしたとき、たどり着く世界なのかも知れません。
 
 「どんなときにも喜んでいる。」
これが、好きよりもっと大好きな世界の入り口のようです。
今週も素敵な時間が始まりました。
石橋を叩いているヒマがあったら、渡っちゃいましょう!
悩んでいる間に、人生終わってしまいますから ♪(´ε` )
 
 
 
 
 
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