おたいせつさま
2016.03.15
日本語に「愛」という言葉はありませんでした。
キリスト教が伝えられたとき、
どういう風に伝えたら日本人に届くのかザビエルたちは考え、
日本人に聞いてゆきます。
そして、
こう翻訳したのでした。
「おたいせつさま」と
ヤマト人にとって、愛とはなんでしょう。
私たちは、困っている人を見たらどうするでしょう。
どんな時でも、無条件にその人を助けるでしょうか。
助けないのは愛のない行為でしょうか。
あきらかに不当な要求をされたらどうするでしょう。
愛があるから受け入れるでしょうか。
受け入れないのは、愛がないのでしょうか。
もしあらゆることに対して、無条件に、
「愛とはこうあるべき」という観念から行動するとしたら、その人は愛を知りません。
正しさという観念から愛を所有しているに過ぎません。
私が勝手に作り上げた正義感かもしれません。
愛という名の元で、人を裁きます。
本当の愛には叡智が内在しています。
叡智は「理解」という言葉に置き変えてもいいでしょうか。
理解が伴っていない愛は、単なる「愛という観念」に過ぎません。
観念は愛ではありません。
正しさの観念は、愛の真逆です。
観念は固定されていますが、愛は臨機応変だからです。
観念は過去の学びですが、愛は「いま」の感応です。
したがって、愛は予測不能です。
信念や、信条や、観念の奥にある、本当の自分の感性を見つけること・・・
それが愛に繋がっています。
なぜなら、愛とはあなたの本質だからです。
本質に近づく秘訣は、リラックスすることです。
力を抜くこと。
どこまでも、どこまでも、力を抜くことです。
緊張から解き放たれ、自我という圧力が減るとき、
愛は自然に流れ込んでくるようです。
そして、意識的であることが必要です。
「自分は愛を知らない」という人がいます。
なんて正直な人でしょうか。
もし知らないのに知っているつもりになったら、そこでオシマイですから。
でも、知らないという事を知っていれば、いつの日にか知るチャンスが訪れます。
そして、その向こう側に「知らないことも知らない世界」が無限に広がります。
「知りたい」「教えて欲しい」という依存から離れるとき、
向こうからやってくるのです。
それを私は「恩寵」と呼んでいます。
それは「いま」かもしれません。
そう、間違いなく、それを知るのは「いま」です。
ちょっと解りづらいかもしれませんが、「いま」と「愛」は同義語です。
「愛」という言葉は、ヤマト人にはなじめない言葉のようです。
へそ道を受講したことのある人は、どうぞ、この文章の「愛」を「みたま」と読み変えて、
もう一度読んでください。
きっと、へそが動き始めますから。