恩人の話し
大手ハウスメーカーの下請工事店だった赤塚組を、自分たちで営業して仕事の取れる元請会社にしようとしたのは、ワシが飛島建設を辞めて、会社を継いで数年したときでした。
創業者の父とは、そのころ毎日喧嘩ばかりしてました。
なんにもわかってくれない・・・実に子供でしたが、その頃はそれで精一杯だったのでしょう。
いまとなれば、経営者としての悩みや苦しみ、一緒に酒でも飲みながら語り合いたい、そんな気がします。
下請をしながら、自社で受注もしていこうと言う父に、若いワシは、「二頭の馬には同時に乗れない」と言い、
「ワシがこの会社辞めるか、親父が社長辞めるかどっちかにして」と、言いました。
そして、父は社長を辞め、ワシに譲った後、死ぬまで経営に口を出すことはありませんでした。
そのころ、ワシのことを可愛がって何かと面倒を見てくれた銀行の支店長がいます。
支店長は、ワシの夢につきあってくれて、団地の真ん中に建てるログハウスの融資もしてくれました。
最初は、商売になるとも思えない道楽にお金は貸せないと言ってましたが、出来上がってからは、そこに人が集まっていると必ず、どんなに遅くなっても駆けつけ、ニコニコと話を聞いてくれてました。
食器が足りないだろうと、大きなお皿をしこたま買い込んできてくれたり、お客さんに珍しいものを食べさせてやると言っては魚や肉を届けてくれました。
ある夜更けに支店長はこんなふうに言い出しました。
「今まで銀行という世界で死に物狂いで働いてきた。夜も休みもなく数字だけをあげることだけを考え、誰にも負けないようがんばってきた。
息を抜くと誰かに足を引っ張られるんじゃないかと怖くなる。
人よりも早く出世することを考え走ってきた。
ひとつの数字を達成するとすぐ、それ以上の要求をされるという連続だ。
私は、赤塚君と知り合って変わった人だと思っていたが、つきあううちにいろんな人を紹介され、自分の知らなかった世界があることに気付かされた。 この建物も無駄だし、儲からないことはやるなと言ったが、どうも、そうではないみたいだ。いつも新しい発見がある。
今日も、こんないい人たちと出逢えて嬉しい。 自分にも夢があることに気付いたよ。
銀行をやめたら釣り船屋をやって、お客さんに釣りを通して喜んでもらいたい。」って
ワシは、嬉しかったですね、確かそのあと「支店長、言うだけではあかんで!目標を明確にせんと!!」とか偉そうなこと言った気がします。
そうしたら、二週間くらいして、支店長は自分の船に掲げる旗を作って持ってきて「銀行やめる!」
ログで、未来の船長さんに捧げる乾杯をしたのでした。
その、二日後、ワシの大好きな大恩人の支店長は、50センチの深さの海で潮干狩りをしているときに心臓発作をおこし、そのまま倒れ溺死してしまいました。 48歳でした。
なんの恩返しもできないままでした。
縁とは、不思議なものですね。
支店長が生きていたら絶対ありえない話ですが、支店長の長男が、大学卒業のときワシの会社に入れてくれとやってきました。 その人A型のカチカチ、入江芳徳は赤塚建設の現場責任者として、やがて40歳になります。 かけがえのない、ワシの右腕です。
ワシもいつの間にか、支店長の歳を5つも追い抜いてしまい、白髪のヤギと褒められるようになりました。
人は、二度死ぬのでしょう。
一度目は、肉体が滅びるとき。
もう一つは、すべての人から忘れ去られる時。 入江支店長は、ありありといまも生きてます。