赤塚高仁ブログ

父の命日

2016.06.06

 10年になります。

あっという間に時が流れた気がします。

4月に胃がんが見つかって、医者に

「あと2ヶ月ですね」と言われてショックを受けて、

ホンマに2カ月で死んでしまった父でした。

 

赤塚建設のホームページに「赤塚高仁物語」があります。

父について書いたところを引用します。

 

「父、次良じろうは、9人兄弟の次男。
 å®Ÿå®¶ã¯é­šå±‹ã€‚

長男があとを継ぐので、何をして生きるのか考えた挙句に入った世界は、東海ラジオの一期生。
 ä»Šã§ã„うDJ、局のアナウンサーのような司会者のような、まだまだ混沌として世間でもあまり認知されてない仕事だったようだ。
 æ±æµ·æ¬¡éƒŽã¨ã„ういかにも安易な芸名で、地元のお姉ちゃんたちに受けて、喜んでいたと聞く。

 æ±æµ·æ¬¡éƒŽã®ä»²é–“のプロのジャズバンドで、専属の司会や歌を歌っていたそうだが、そのバンドの女性ボーカルとギタリストとの間に生まれたのが、あべ静江である。
しかし、父がヤクザな稼業についたのも、若くして大好きな母を病いで亡くし、少しぐれてしまったからだと兄弟たちは言うが、

他の兄弟は皆、マトモでカタギであることからみても、当たり前のことをコツコツ続けることが苦手であったに違いない。
 èµ¤å¡šé«˜ä»ã®æ€§æ ¼ã¯ã€çˆ¶ã®éºä¼å­ã«å½±éŸ¿ã‚’受けているのかも知れない

 

次良と知子は、見合いで出会った。
 ä¸¡æ–¹ã¨ã‚‚何度も見合いをしていたが、それまで結婚に至らなかった。
 æ¬¡è‰¯ã¯æ°—ままな生活を謳歌していたかったのだろう。
 çŸ¥å­ã¯è¦‹æ „と体裁上、社会的地位、学歴の高い社長の御曹司、医者、政治家らと見合いさせられ続けていたようだ。
それとも、2人が出逢うべくして出逢うまで、時を待っていたのか。

2人は見合いをし、好き合った。
 ç¥–母は、ヤクザな水商売のような稼業の男に優秀な娘はやれないと言ったそうだ。
 æ­»ã¬ã¾ã§ç¥–母は、次良が行くと「知子は最後にカスをつかんだ」と言った。
それを黙って聞いていた次良は、すごいと思う。

さて、津工業高等学校の建築科を卒業していた次良は、建築屋になると祖母に宣言し、芸能界から足を洗った。
 å»ºç¯‰ã«å¯¾ã™ã‚‹æƒ…熱や、住宅への想いの深さと言うよりも、好きな女性と一緒になるための方便のような起業だったようだ。
 è¡Œãå½“たりばったりの赤塚高仁の性格は、父の遺伝子に影響を受けているのかも知れない。

30歳を過ぎての建築業、大工になれるわけでもなく、とりあえず素人が創めた建築屋、中途半端と言われても仕方あるまい。
しかし、時代が良かった。
カンバンをあげたらお客はあった。
お客があれば、大工も行列して店の前に並んだ。
 èµ¤å¡šé«˜ä»ãŒç”Ÿã¾ã‚ŒãŸæ˜­å’Œ34年は、伊勢湾台風の年。
 ä»•äº‹ã¯ã€ã©ã‚“どんやって来た。
 å®¶ãŒã§ãã‚‹ã¨ã€ãŠå®¢ã¯æ„Ÿè¬çŠ¶ã‚’くれた。
 ä¼šç¤¾ã«ã¯ã€æ„Ÿè¬çŠ¶ãŒä¸¦ã‚“だ。
とりあえず、中途半端な工務店は成長する時代の波に乗って流れてゆく。

 ã€Œä¼šç¤¾ã¯å¤§ããã™ã‚‹ãªã€‚大きくするのはアホでもできるが、大きくしたものを小さくするにはアホでは無理」

「商売は、牛のよだれのように。ダラダラ細く長く」

父から聞いた経営の哲学は、このようなものだった。
 èµ¤å¡šé«˜ä»ã®çµŒå–¶æ–¹é‡ã¯ã€çˆ¶ã®éºä¼å­ã«å½±éŸ¿ã‚’受けているのかも知れない。

営業の嫌いな父は、ハウスメーカーの下請け工務店の道を選ぶ。
 å¤ªå¹³ä½å®…というハウスメーカーの専属の工務店となった。
もともと好きで住宅業界に入ったわけでない父は、家では常にメーカーの不平不満を口にした。
 å®¢ã®æ‚ªå£ã‚’言った。
 ä¸–の中はつらいもの、世間は厳しい、仕事は大変だ。
 ç¹°ã‚Šè¿”し聞かされるうちに、高仁は大人にはなりたくないものだと思った。
 ç’°å¢ƒã¯ã€å½±éŸ¿ã‚’与える。

温厚で人当たりのいい、いい人を演じることはストレスの溜まることである。
 å¤–では、仏さまのように言われる次良も家では仏頂面。
 æ°—が短く、怒り、怒りにまかせて息子を殴る。

家の中では、外面と違う。
 å¤–ヅラは良いが、内弁慶な赤塚高仁の性格は、父の遺伝子に影響を受けているのかも知れない。
それでも、売春婦のように、「生きていくためには仕方がないじゃないの」と自分を慰めながらも仕事は、恵まれ続けた。
そんな、時代であったようだ」

 

 私が、ゼネコンを辞め、鬱病になって死にそこない、糸川博士とイスラエルに行き、

日本中走り回っているとき父は、

「あの糸川という爺さんが死んだら息子は洗脳が解けてまともになるんやろか」と寛子さんに言ったという。

いいえ、洗脳は死んでも解けないと思うよ、父さん。

 

 そんな父がガンになって、日に日にやせ細ってゆきました。

父を何とか励まして、希望を持ってもらおうと映画と講演会を企画しました。

当時一年間のスケジュールは全く空きがなく、二年前から講演会の申し込みをしなければならなかった、

山元加津子、かっこちゃんの講演会と「1/4の奇跡」の上映会。

5月にかっこちゃんに頼んで、7月7日に三重県文化会館で開催することが叶いました。

どんなことをしても行きます!と言ってくれたかっこちゃんの友情に感謝です。

父に、チラシを見せ、

「ワシが出てる映画やで、ログハウスで撮影したよ、

 面白い映画やから楽しみにしといて」と、毎日言いました。

全国から友達に来てもらおうと、声をかけました。

 

  けれど、6月7日 映画と講演会のひと月前に父は逝きました。

最後の言葉は 「バイバイ」でした。

 

父のための講演会でしたが、もう動き出していたので開催しました。

超満員の会場、中央の席に父の遺影。

始まる前に主催者として挨拶に立ちました。

ステージから会場を見渡すと、全国から集まってくれた仲間たち。

話しているうちに気がつきました。

父のために開催したつもりだったけれど、

父が私のためにこの場を創ってくれたのだと。

父がくれた私の人生。

この人生でもっとも大切な宝は「善き仲間」

 

 こんなに素敵な仲間を集めてくれた父のことを思うと、舞台で涙がポロリとこぼれました。

山元かっこちゃんの話も胸に染みました。

 

 あれから10年。

父との真実の対話は、死に別れてから始まったように思えます。

会社には父のその時の遺影が飾ってあã
‚Šã¾ã™ã€‚

最近お客様が言われます。

「赤塚社長、どうして自分の写真を会社に飾ってるんですか」と。

 

 今度生まれ変わっても、次良さんの息子でいたいと思うのであります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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