伊江島・飛龍庵
1998年2月、伊江島で光のピラミッド、
12角形の建物を真ん中でつなぐ美しい建物を上棟しました。
「飛龍庵」と名付けられたその家は、友が妻に贈るために建てたものでした。
2000年に書いた私のエッセイです。
「自分ってすごい!」
「「邦子死んじゃうの?」
病院のベッド、白いシーツの上で邦子さんは苦しい息をつきながら、ふりしぼるような声で言った。
胸に出来た小さなしこりが癌であることがわかったのがその日から二年と半年前のことだった。
そのとき息子の龍之介は、三歳。
「龍ちゃんのお嫁さんを見るまで私は死なない」邦子さんの命懸けの日々が始まった。
ご主人の明さんは、東京に有る大企業の社長。
仕事に忙殺されて家庭を省みることもなかった。
カンナみたいに命を削りながら仕事をしていた明さんは、邦子さんの病気を機に人生を変えた。
すぐそばの人を幸せにできなくて、どうして社員やお客様を幸せにできようか。
邦子と龍之介のために生きる。彼は決意し、
全ての時間を家族に捧げていった。
沖縄は北部、本部半島から船で三十分のところ、伊江島にいた私に彼から電話があったのは病院で邦子さんの癌の告知をされた日。
「えっ!・・・」友からの突然の電話にとまどい、うろたえる私がいた。
彼らに自分が、何をしてあげられるのだろうか。
「とにかく、すぐにおいでよ。沖縄に」
とっさに私は、そう言っていた。
三人は、東京から伊江島にやって来たのだった。
「私、癌なんだって」気丈な邦子さんは、医師から告知を受けとめていた。
途方にくれる友のそばで、何も知らない龍之介は、沖縄の青い空と海の間ではしゃぎまわっている。
「いいわね・・・沖縄・・こんなところに住めたら最高ね」少しうつろな瞳のまま邦子さんはつぶやく。
「ここに建てようよ、僕らの・・いや、みんなのための癒しの家を」友は強く言った。
我々のプロジェクトが始まった。
まず、土地探し。沖縄、しかも離島の人々がヤマトの人間に土地を提供してくれることは奇蹟に近い。
伊江島に住む私の親友が、請け負ってくれた。
海に近い、港のすぐそばの土地を格安の値段でみつけてくれた。
日本中から仲間が集い、琉球の景色にふさわしい建物が完成したのだった。
島の人達をお迎えして、竣工パーティをひらいた。
私は、三線(琉球の三味線)を弾き明さんは太鼓、邦子さん、友人である声優の小山マミ、美佐子さん、康子さん、私の妻寛子の五人は琉球の衣装をつけて琉舞を舞った。
その建物は、邦子さんによって「飛龍庵」と名づけられた。一人息子の名を取って。
それから病は、情け容赦なく邦子さんを蝕んでいった。摘出したはずの細胞はリンパに転移し、肺に入った。水が溜まった肺は、邦子さんの呼吸を苦しくさせた。
「龍ちゃんの卒園式には出たい、入学式に行きたい」肺の水を抜けば楽になると医師から言われた邦子さんは病院に入った。
二千四百CCの水が溜まっていた。
しかし、それが命取りになり翌日邦子さんは帰らぬ人となった。
「邦子、死んじゃうの?」
なんと、邦子さんはベッドに起き上がり正座をして「みなさんこんな私を愛してくれてありがとうございました。私は、幸せです。私ってすごい。」
それが、最期だった。
人は、二度死ぬ。一度目は、肉体が滅びるとき。もう一度は、全ての人から忘れ去られる時。
星になった邦子さんは、今だ生きている。」
いまでは飛龍庵は、一般の人が宿泊できる施設になっています。
18年の時を超え、沖縄講演会の翌日伊江島に渡ってみました。
澄み渡る海と、何処までも青い空。
何も変わらない沖縄の風景の中で、風に耐えてきた木の色や大きく育ったガジュマルの木に時を感じます。
邦子さんが亡くなったのは、糸川先生が亡くなってすぐ。
17年が経ったのですね。
やがて私も糸川先生や邦子さんが旅だった世界に行く日がきます。
その日まで続くこの世の旅路で為すことはただ一つ。
「自分さておき、人のために命をつかうこと」
人は、誰かを幸せにするとき、幸せを感じられるようにプログラムされているようです。
自分を幸せにしようとして、幸せになった人は一人もいないと思えます。
やはり、手のひらはもらうためより
あげるためでしょうか。