鬼太鼓という兄弟たち
糸川英夫博士と出会い、ワシの運命は361度くらい変えられましたね。
きっかけはなんだったのかと思い出してみると、和太鼓のプロ集団鬼太鼓座の導きでした。
当時鬼太鼓座のマネージャーだった吉村信介さんが、東京の糸川邸での勉強会に行くというので、連れて行ってくれと頼み、出かけていったのでした。
糸川先生は、当時パリ国立大学や、米国の大学でも教えておられました。
バブル経済真っ只中の日本は、有頂天で、ニューヨークの土地まで買い占めるほどでした。
糸川先生は、欧米の教授たちに「イトカワ、お前の国が儲けているもので、お前の国が発明したモノがあるか? 自動車も半導体も米国の発明だ。モノマネばかりで儲けて、取り込むことばかり、ブラックホールみたいな国だな、日本は」 常にイヤミを言われていたそうです。
そんな時に糸川先生は、鬼太鼓座と出会いました。
1969年に佐渡島で結成された和太鼓集団。
毎日20キロ以上走り、叩いた力で叩き返される力に負けない身体をつくる。
今、日本中に4000とも5000ともいわれる和太鼓のチームがありますが、その原点が鬼太鼓座です。
座員は、入れ替わってゆきますが、ワシが魂の交わりをしたメンバーたちは、なんとアメリカ合衆国を3年かけて走って一周しました。
行く先々で演奏し、一宿一飯世話になりながら。
ニューヨークマラソン、完走したゴールで舞台に駆け上がり、二時間の舞台をした伝説のグループです。 フルマラソン、速い奴は2時間半で走り抜けるのですから、驚異ですよね。
鬼太鼓座こそ、日本が世界に放つ文化であり光だ!と糸川先生は、全身全霊で支援しましたね。
だから、ワシも鬼太鼓座のみんなと兄弟みたいにつきあわせてもらいました。
糸川英夫生誕100年記念の日に、あの頃のメンバーが集まってくれました。
手弁当で、太鼓を打ってくれました。
鎮魂歌、まさにレクイエム、天に届く命の響きでした。
糸川先生喜んでくださったでしょうか。
そして、ワシらのリーダーのお父さん、聞こえましたか?
告別式の夜にワシは、しみじみ雨降る夜空を見上げていたのでした。