パウロの手紙
インドにも5回行ったでしょうか。
四国遍路88箇所もまわりました。
新興宗教にもたくさん触れました。
あの麻原ショーコー、尊師や、大川隆法総裁のお話も直接お聞きいたしました。
でも、10年前にイエローハットの鍵山秀三郎さんと一緒に行ったシリアのダマスカスで、衝撃的な霊的体験をしたのです。
ビックリ体験でした。
聖書の信仰などまったくなく、
アーメン ソーメン 冷やソーメンと言っていたワシが、
パウロという人の声を聞いてしまいました。
その人が、どんな人かも知りませんでした。
ダマスカスのホテルのベッドの上でした。
「お前をここに呼んだのは、私だ。
お前は、イエス伝える水路となれ」
教会も行ったことないし、聖書も読んだことないから「無理です」と答えると。
「そのままのお前が語れ、常に私が共にいることを忘れるな」
・・・訳も分からず、嬉しいのか、悲しいのか・・ただ、号泣したのを覚えています。
今朝も聖書を読んで、祈りました。
ピリピ書3章 「・・・わたしは、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。
しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
わたしは、さらに進んでわたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。
キリストのゆえに、いっさいのものを損と思っている。
キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを糞土のように思っている。
それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、
すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見出すようにようになるためである。
すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全なものになっているとか言うのではなく、
ただ捕らえようとして追い求めているのである。
そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである。
兄弟たちよ。
わたしはすでに捕らえたとは思っていない。
ただこの一事を努めている。
すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指して走り、
キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである・・・
兄弟たちよ。
どうか、わたしにならう者となってほしい。
わたしがそういうのは、キリストの十字架に敵対して歩いているものが多いからである。
わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。
彼らの最後は滅びである。
彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。
しかし、わたしたちの国籍は天にある。」
キリスト教は分かりませんが、イエスもパウロも強烈な愛国者であり、サムライだったと感じ大好きなのであります。