鍵山秀三郎さんからの手紙
赤塚高仁様
久しくお声も聴かず、便りも交わさないまま時が過ぎました。
懐かしい思いをもってお便りします。
未曾有の災害が発生して、被害を直接蒙らなかった東京まで右往左往しています。
むしろ被災地の人より、東京で物の買い溜めに走るなど浅ましいことです。
家の中にペットボトルを積み上げてどんな気持ちでいるのかと思います。
私のように戦争末期の一面焼け野原の防空壕で暮らした者からすると笑止の限りです。
スイッチだけで電化製品が使える、決まった時間に乗り物が来る、ガソリンはいつでも入れられる、欲しいものはいつでもどこでも手に入ると思っていたことが、当たり前ではないことを教えられました。
生きることに緊張を強いられる時代に入りました。
未来が少ない私は、未来の多い世代のことを心配しております。
古代ギリシャの政治家キケロの言葉、二千年以上も前のことですのに現代社会にぴったり当てはまると思いましたのでお届けします。
「私は、自分が独りでいるとき最も孤独ではない。」
孤独という意味には、物理的に一人でいるという以上に深い意味が含まれているようです。
例えば、銀座のように人通りの多い雑踏の中で、独りでいるより深い孤独を感じてしまうことがあります。
足早に行き交う人、急用がある人、用事のない人、楽しい人、悲しい人、すれ違う人がどういう人か互いに興味を持つことはありません。
人々は周囲に対して無関心でいることで、自分のプライベートの領域に他人が割り込むことを拒否し、他人に興味を示さない代わりに、自分にも係わって欲しくないことを周囲に無言でアピールしています。
雑踏の人々は、人ごみに紛れて孤独と引き換えに自由を守っている。
これが都市、都会というものなのでしょう。
ですから、物理的に一人であっても人は孤独とは言い切れません。
いくら沢山の人と群れていても孤独の人は孤独なんですね。
ローマ時代の政治家キケロの言葉です。
私は、自分が独りでいるとき最も孤独ではない。
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鍵山秀三郎 拝