14回目の命日です
我が人生の師、糸川英夫博士が天に還ってゆかれたのが、14年前の今日のことでした.
あの日の明け方、病院から電話が入り、昇天を教えられました.
とても寒い朝でした。
すぐに車で信州丸子町の糸川先生の家に走っていきました.
二度の脳梗塞から不死鳥のように蘇り、講演に執筆に最後の最後まで現役でした.
ワシは、糸川先生がメモをとってるのを見たことがありません.
でも、聞いたことを完璧に覚えておられました.
30代のワシは、誰もがそんなふうにできるものだと思っていましたが、
53歳にして、メモなしでは記憶に自信のないワシは、今更ながら糸川博士の頭脳のすごさを思わされるのです。
「 葬儀はやらないように. 香典、お花は一切受け取らないように 」と糸川先生は遺言されていましたから、ワシが玄関先で断りをする役でした.
すみません、申し訳ありませんと何度頭を下げたことでしょう。
小さな焼き場で世界に誇る頭脳は、灰になりました。 お骨を拾いながら、ひとかけら齧りました。
焼き場まで一緒に行かれたHーⅡロケットの生みの親、秋葉先生、宇宙研の的川泰宣博士・・・日本の宇宙開発の頂点の先生方はみな糸川博士のお弟子さんだったのですね。
ワシが糸川博士の元で過ごした最晩年の10年間、糸川先生はワシにロケットの話をされることはほとんどありませんでした。
でも、 それって、すごいことじゃないですか!?
糸川英夫といえば日本初のペンシルロケットの生みの親で、ロケット博士ですよ。
東京大学の名誉教授として、生涯安泰に暮らす選択もあったはずです。
しかし55歳で東大を退官。 「恩給がつくようになったら、独創力がなくなるから」と言っておられました。
それにしても、55歳で出した「逆転の発想」は100万部を超す超ベストセラーになり、86歳で亡くなるまでに70数冊の本を書かれるなんて・・・
60歳からクラッシクバレエを始め、帝国劇場の舞台に上がったり・・・
常に「前例がないからやってみよう」という生き様を貫かれたのでした。
「人にとって過去の成功体験ほど危険なものはない」という糸川先生の言葉は、今になって意味がわかりかけてきたような、出来の悪い弟子です。
弟子は、師匠に近づきたくて一所懸命真似するところから始まるのですが、良いところよりも悪いところから似てしまうようです。
今一度、糸川英夫博士を偲び、大切なことを思い出す一日にしたいものです。