魂の引越し
2013.04.24
毎朝、お祈りをしていて思うことがあります。
ああして欲しい、こうして欲しいと願いはつきないのですが、
神様は、困った人を見たらどうされるでしょうか。
どんなときでも、無条件に、その人の望むままに助けるでしょうか。
願いがかなうとき神様がいて、思い通りにならないとき、神も仏もあるものかと失望するのでしょうか。
苦しいときの神頼み、ああしてください、こうしてください、という要求にいつも神様は応えるでしょうか。
神様は、あきらかに不当な要求をされたらどうするでしょうか。
神は愛ですから、受け入れるでしょうか。
もしあらゆることに対して、無条件に、「愛とはこうあるべき」という観念から行動するとしたら、それは愛ではないのかも知れません。
知らぬ間に作り上げた「正しさ」という観念から愛を所有しているに過ぎないように思えます。
本当の愛には叡智が内在しています。
叡智とは、「理解」という言葉に置き換えてもいいでしょうか。
理解が伴っていない愛は、単なる「愛という観念」に過ぎません。
観念は愛ではありません。
正しさの観念は、愛の真逆です。
「これが正しい、こうすればいい」と人をコントロールする心は、愛から出ているのではないのでしょう。
だから、そこに喜びがないのです。
観念は固定されていますが、愛は臨機応変だからです。
観念は過去の学びですが、愛は「いま」の感応です。
したがって、愛は予測不能です。
信念や、信条や、観念の奥にある、本当の自分の感性を見つけること・・・
それが愛に繫がるのではないでしょうか。
愛とは人間の本質なのでしょうか。
聖書には、「神は愛なり」と書かれています。
愛とは神の本質なのかも知れません。
本質に近づく秘訣は、リラックスすることです。
力を抜くこと。
どこまでも、どこまでも力を抜くことです。
そして、意識的であることが必要です。
「自分は愛を知らない」
実は、これがワシの本音です。
この間、澤田さんが「俺、自分のことわからなかったよ」と言ったひと言で、ワシは大きな魂的自覚を促されたのでした。
知らないのに知っているつもりになったら、そこでオシマイです。
でも、知らないということを知っていれば、いつの日にか知るチャンスが訪れます。
今日は名古屋で風水セミナー最終回
ワシらは、やがてこの世を離れて次の世界に生きるわけですが、
まずはこの世の旅路を善き仲間とともに豊かに歩むことが大事です。
現実から目をそらさず、毎秒毎秒命懸けで生きることを見せてくれるリーダーから目が離せません。
魂の覚醒が始まったリーダーは、やまとのこころを伝える大いなる役柄のためにいよいよ神様に用いられようとしているようです。
魂の引越しは、まさに伊勢の御遷宮と同様、天が願う御神事です。