ローマ人への手紙
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、
律法のもとにある者たちに対して語られている。
それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。
なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。
律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
しかし、今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。
そこにはなんらの差別もない。
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスのあがないによって義とされるのである。
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。
それは神の義をしめすためであった。
すなわち、今までに犯された罪を神は忍耐をもって見逃しておられたが、それは、今のときに、神の義を示すためであった。
こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
すると、どこにわたしたちの誇りがあるのか。 全くない。
なんの法則によってか。
行いの法則によってか。
そうではなく、信仰の法則によってである。
わたしたちは、こう思う。
人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。
断じてそうではない。
かえって、それによって律法を確立するのである。
ロマ書 3章より
一昨日からアイフォンの調子が悪く、メールも電話もつながったり、つながらなかったり。
昨日は、ソフトバンクの電話屋さんに行ったら 「チップを変えるか、初期化してください」やて。
どっちも効果なし。
データーや写真がすべて無くなっただけですわ。
でも、あまりに多くの「情報」という名の「ノイズ」の中で、ワシらは「本当のこと」を見失っているのかも知れません。
この世の大きな声の中で、静かな内なる声が聞こえなくなっているようです。
携帯電話が調子悪いだけで、心が揺れるのもどこかおかしなことです。
今朝読んだ聖書、ローマ人への手紙、パウロ先生の書簡です。
2000年経って、いまもなお新しい。
いのちの素とつながって生かされていること、ふっと思い出してみたいものです。
生きていることのなつかしさに、ふと 胸が熱くなる。
そんな日があってもいいと思えます。
ワシらは、まわりの人を変えようとか、世直しをしようとか頭が考えてしまうけど、
この広い宇宙の中で、変えることが出来るのは自分の心だけかも知れません。
ラジエントヒーターの伝道師から電話をいただき、昨日会社を卒業されたとのこと。
らーめんみのりの大将から電話をいただき、昨日お店を閉められたとのこと。
ワシらのそんな営みを乗せながら、知らん顔してこの星は回っています。