赤塚高仁ブログ

ローマ人への手紙

2013.06.03

 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、

律法のもとにある者たちに対して語られている。

それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。

なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。

律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

 

 しかし、今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。

それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。

そこにはなんらの差別もない。

すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスのあがないによって義とされるのである。

神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。

それは神の義をしめすためであった。

すなわち、今までに犯された罪を神は忍耐をもって見逃しておられたが、それは、今のときに、神の義を示すためであった。

こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。

すると、どこにわたしたちの誇りがあるのか。  全くない。

なんの法則によってか。

行いの法則によってか。

そうではなく、信仰の法則によってである。

わたしたちは、こう思う。

人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。

断じてそうではない。

かえって、それによって律法を確立するのである。

                           ロマ書 3章より

 

 一昨日からアイフォンの調子が悪く、メールも電話もつながったり、つながらなかったり。

昨日は、ソフトバンクの電話屋さんに行ったら 「チップを変えるか、初期化してください」やて。

どっちも効果なし。

データーや写真がすべて無くなっただけですわ。

でも、あまりに多くの「情報」という名の「ノイズ」の中で、ワシらは「本当のこと」を見失っているのかも知れません。

この世の大きな声の中で、静かな内なる声が聞こえなくなっているようです。

携帯電話が調子悪いだけで、心が揺れるのもどこかおかしなことです。

 

今朝読んだ聖書、ローマ人への手紙、パウロ先生の書簡です。

2000年経って、いまもなお新しい。

いのちの素とつながって生かされていること、ふっと思い出してみたいものです。

生きていることのなつかしさに、ふと 胸が熱くなる。

そんな日があってもいいと思えます。

 

  ワシらは、まわりの人を変えようとか、世直しをしようとか頭が考えてしまうけど、

この広い宇宙の中で、変えることが出来るのは自分の心だけかも知れません。

 

ラジエントヒーターの伝道師から電話をいただき、昨日会社を卒業されたとのこと。

らーめんみのりの大将から電話をいただき、昨日お店を閉められたとのこと。

 

  ワシらのそんな営みを乗せながら、知らん顔してこの星は回っています。

 

 

 

 

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