にんげんクラブ その2
我が国とユダヤ
イスラエルは、いろいろな意味で日本と対極にある国だと言えましょうか。
国土の六〇%が砂漠の国、アブラハム、モーセ、イエス、パウロ・・・みな砂漠で神と出会い、神の声を聞いています。
砂漠でたった一人、星空を見上げていると、人間界、あるいは生物界を超越した宇宙を支配する絶対的なルールを体感するのでしょうか。
聖書の「神」と、日本人が感じる「神」とは現れ方違うのかも知れません。
大本はおなじでも、環境、歴史、文化が違えば現れ方は違って当然でしょう。
そこを、理解しないと聖書は読めないように思えます。
私も二九歳で初めてイスラエルを訪ね、その後十度、導かれて聖書の地を歩き、足の裏で聖書を読んできました。
ユダヤ教徒でもキリスト教徒でもない私が、聖書に書かれている「神様との約束」を知るまでに、ずいぶん時間もかかりました。
ユダヤ人の宗教であろう聖書の信仰が、日本人にわかるものではないと思っていたからです。
ところが、知れば知るほどヤマト人とユダヤ人、違いよりも共通点があまりに多いことに気がつかされ衝撃を受け、私自身が変えられてゆきました。
そして、ヤマト人とユダヤ人とは、まるで双子の兄弟のようにも思えてきたのです。
ひとつ例をあげましょう。
御柱祭で名高い信州の諏訪大社では、古来「御頭祭」という祭りが行われてきました。
この祭りでは、十五歳未満の少年が神の使いとしての役割が与えられました。
この少年は、柱に縛りつけられ、生贄とされるのです。
少年を柱に縄で縛りつけて、人々は柱ごと竹のむしろに押し上げて、そこには刃物も登場します。
そこに神官が現れ、縛られていた少年は解き放たれるというのです。
今では、少年を縛りつける風習はなくなってしまったようですが、生贄の柱の風習は残っているそうです。
少年の代わりに捧げられた生贄は、鹿です。
諏訪大社に鹿の首が並べられていますが、ヤマト人には生贄の風習がないのに不思議なことです。
しかも、中に耳が裂けている鹿があり、特別なものとされたようですが、「やぶに角を引っ掛けていた雄羊」の耳が裂けていたのかも知れません。
これらの行事が執り行われる諏訪大社の御神体は、山であり、その名を「守屋(モリヤ)」といいます。
まるでアブラハムとイサクの物語が、ヤマトの信州、縄文の国で伝承されているかの如き祭りです。