赤塚高仁ブログ

あさはかな善人

2013.11.11

 中日新聞に連載中の「親鸞」を読むのが日課の一つです。

五木寛之さんの本は、ことごとく読んでいるのですが、新聞連載はまた格別ですね。

いよいよ親鸞も完結編、128話まで来ました。

我が家も浄土真宗・高田派で、お念仏は子供のころから唱えてきましたから、とても身近な物語です。

もっとも、ワシはシリアのダマスカスでパウロの霊と出会ってから、キリスト者になりましたので、

お経よりも聖書を読みます。

それでいて、伊勢の神宮のガイドもしますから、やはり日本に生まれた幸いをかみしめるのです。

諸宗教和合、一切の垣根を超えることができるのは、大和民族しかありません。

 

 それはさておき、親鸞に息子の善鸞がこういう場面がありました。

「正直に申し上げます」

と、善鸞は言った。

「このわたしといういう人間は、ほんとうに救いようのない、あさはかな男です。

なぜだかわかりませんが、人前に立って、皆の注目をあつめ、演じたり語ったりするとき

自分がよみがえったような気がするのです。

人々が夢中になって自分の声にききいってくれている。

そうすると、わたし自身も酔ったような感じになって、なにもかも忘れて生きていると思うのです。

わたしが唱導をやろうとするのは、自信教人信、などという立派なことではありません。

たとえ二人でも三人でも、このわたしをみつめ、その声にききいってくれる、そのことだけで嬉しいと思う。

わたしは、そういう人間です。

わたしは愚かで、見栄と虚飾のかたまりだとやっと気づきました。

悪人ならば、救われもしましょう。

しかし、このわたしは悪人にさえもなれない薄っぺらな人間です。

ひとりで念仏していても、すこしも心は晴れません。

わたしは人から賞賛され、あこがれられることだけが、生き甲斐なのです。

この年になって、ようやくおのれの本性がみえてきました。

親鸞様、わたしはどうすればいいのでしょうか」

善鸞の声には、心の底からの真実味が感じられた。親鸞はただじっと善鸞の顔をみつめるしかなかった。

涼が小声で言った。

「わたしは、このひとがかわいそうでならないのです。

わたしは悪人でございますけど、このひとはあさはかな善人なのです。

だからこと、まだお念仏が身にそわないのでしょう。どうか、このひとに道をひらいてやってやってくださいませ」

善鸞が手の甲でそっと涙をふいた。

 

 

  ああ、ワシの心の中のざわざわとどきどき・・・あさはかな善人・・・ 

ワシの本性が見えたような気がします。  本当に救われるのでしょうか、あさはかな善人が。

南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ

 

  

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