昭和偉人伝
BS放送で、こんな番組をやってました。
「昭和偉人伝」
少しまえに、その番組の制作会社から電話があってインタビューされました。
いえいえ、ワシが出るわけもありませんがな。
ワシがご縁いただいた、糸川先生のスペシャル番組を作ると言うので、先生とのエピソードを聞かれたのです。
番組は、大東亜戦争が終わった後、ポツダム条約で航空機の開発を一切禁止された日本が、
再び世界を相手に挑戦する物語から始まりました。
飛行機が人生そのものだったのに、飛行機を奪われた糸川先生はロケットで世界に向かってゆきます。
しかし、日本にはロケットに関するものなど何もありません。
まったく前例のない世界からの出発です。
どんだけの逆境でしょうか。
しかも、日本を背負ってのプロジェクト。
それが、23センチのペンシルロケットから始まるなんて、世界中が驚きました。
ところがペンシルロケットから2年で、カッパーロケットを100キロ上空まで飛ばした奇跡の裏側にあった、途方もない努力の積み重ね。
当時の糸川先生の弟子たちのインタビューがありました。
H-Ⅱロケットの生みの親、秋葉先生、太陽系探査機はやぶさの的川先生・・・あの頃のことを目を細めて話されます。
眠ったら糸川先生に叱られた、と笑うJAXAの戦士たち。
想像を絶する努力の末に打ち上げた初の人工衛星おおすみ。
それにしても
糸川先生のプレッシャーたるや、どんなだったことでしょう。
冒険に失敗はつきものですが、我が国は失敗に対する批判は強烈ですから、糸川先生は何度も極限まで追い込まれます。
5度目のチャレンジで成功した、日本初の人工衛星 おおすみ。
その打ち上げを糸川先生は、見ることはありませんでした。
積み重なる失敗で、バッシングが強くなり、糸川先生、全部の責任背負って東大を退官されました。
ロケットたたきを、糸川潰しに転換させて、それを引き受けることで、日本の宇宙開発を守ってくださったのだということを改めて知らされました。
糸川先生55歳のときでした。
その時の糸川先生の年齢に、ワシ なったのですね。
東大をやめた後、55歳で出版された 「逆転の発想」は100万部を超す大ベストセラーとなりました。
それから、亡くなるまでの30年間で70冊近くの本を出されました。
最後まで好奇心と冒険の心の塊のような方でした。
ワシが糸川先生とお出逢いいただいたのは、先生76歳、ワシが29。
10年間 おそばにおいていただきました。
何より驚くのは、糸川先生はワシにロケットの話、されたことありません。
過去の功績に触れたこと、ありません。
常にここから先を見ている先生でした。
驚くべき日本の国家的財産ともいえる先生でした。
「 人生には、二つの宝があります。
一つは良き友、もう一つは逆境です。 」
糸川先生の口ぐせでした。
空にあこがれて、空を翔けてゆく・・・ 飛行機雲のような糸川先生が心の中に広がります