怒るのは、怖いから
妙に苛立たしく、何かきっかけがあれば噴火しそうなマグマが腹の底にある・・・
そんな日は、注意が必要ですね。
ていねいに話していても、笑顔をつくっても、どこかでイライラのエネルギーが相手に伝わります。
互いに緊張し、どこかぎこちない会話になり、ともすると、すれ違いが生まれることにもなります。
その反対に、心にゆとりがあり、あたたかな気持ちでいるときは、
少々の荒い言葉にも反応せず、笑ってジョークのひとつでも返せることもあります。
伝わるモノ・・・それが大切ですね。
立派な一流ホテルでも、実に丁寧な受け答えをしてくれているのに、何だか嫌な気分になることってありませんか。
「慇懃無礼」
そんな言葉の意味をしみじみ噛みしめたりするのです。
ところで、怒りは、どこからくるのでしょう。
義憤といって、義のために憤りをおぼえる人もありますが、とりあえずワシのレベルで思うに、
自分の思い通りにならないという、子供の影。
自分はわかってもらえない、こんなにしているのに・・・という、犠牲者の影。
また、この二つが結託してタッグチームを組んで子供と犠牲者のダブルパワー。
つまり、自分の中の闇に乗っ取られている状態だと言ってよいでしょうか。
そのとき自分のエネルギーはじゃじゃ漏れです。
これは、自分の性格の問題でもないと思います。
どうしようもない衝動ですから。
ただ、そのとき 「あ、 いま自分の中の子供が暴れてる」 「犠牲者の影が立ちあがって来ている」と意識できるとき、次第に闇は晴れてゆくのです。
が、それを外に、人にぶつけてしまうことがあります。
その時、新しい次の問題を生み出します。
相手に対して怒るのは、相手が憎いからではないのかも知れません。
自分のうちで闇が立ちあがっていることに気づくのがいやなのか、すべての問題を外側に探そうとして自分を観ないからでしょうか。
周りのすべては自分の想いの変化体であり、鏡です。
怒りの正体は、「恐怖」なのかもしれません。
今日、ふっと感じたことです。
そして、その恐怖がどこから来たのかと我が内側を探ってみるとき
「依存」があることに気がつかされました。
「依存」が「恐怖」を生み
「恐怖」が「怒り」に変わってゆく。
人の心は、複雑なようで、シンプルなのかもしれません。
ただし、「知ってる」ことと「できる」ことは違いますし、
「できない」と「やらない」も違います。
こうやって心の分析をするよりも、笑ってあたたかな言葉を使う方がはるかに大事だと思います、ハイ