日本武尊 その1
一か月があっという間に過ぎてゆきます。
連載している「にんげんクラブ」の原稿、4500文字 締切です。
今回は、日本武尊のことを書きました。
掲載されるのは2月号です。
ワシが大好きな、日本史上最高に素敵な英雄のこと、知ってもらいたいと願いつつ。
ヤマト人への手紙 第六章 赤塚高仁
「日本武尊」
イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。ヨセフはヘリの子、それから、さかのぼって、マタテ、レビ、メルキ、ヤンナイ、ヨセフ、 マタテヤ、アモス、ナホム、エスリ、ナンガイ、マハテ、マタテヤ、シメイ、ヨセク、ヨダ、ヨハナン、レサ、ゾロバベル、サラテル、ネリ、 メルキ、アデイ、コサム、エルマダム、エル、ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタテ、レビ、シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリヤキム、 メレヤ、メナ、マタタ、ナタン、ダビデ、 エッサイ、オベデ、ボアズ、サラ、ナアソン、アミナダブ、アデミン、アルニ、エスロン、パレス、ユダ、ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、セルグ、レウ、ペレグ、エベル、サラ、 カイナン、アルパクサデ、セム、ノア、ラメク、 メトセラ、エノク、ヤレデ、マハラレル、カイナン、 エノス、セツ、アダム、そして神にいたる。
ルカ伝・第三章
神との約束
新約聖書の「約」とは、約束の意味です。つまり、神と人との間の約束、それを書き記したのが聖書として全人類に伝えられてきました。
我が国では、「天壌無窮の神勅」として伝わって来たのでした。
天照大神の孫であるニニギノミコトが携え御降臨され、いまなお生きる荘厳な御神勅。
「あめつちとともにきはまりなかるべし」とは、「アマテラスの直系の御子孫として代々日本の国の統治者となり、天皇の御位を継いで、その輝かしい光栄と、重い責任とを荷って宇宙が存在する限り永遠に栄えるのです」という意味なのです。
これは、天照大神の宣言であり、誓約です。
その神話がいまも生きてはたらく奇跡の国、ヤマトの国家の建設を果たされた神武天皇のご功績たるや、どれだけ賛美しても足りるものではありません。
その皇統が連綿として現在まで続き一二五代に至る、世界で類なき歴史を持つヤマト人とは、まさに神の約束の民と言えるかも知れません。
伊勢の神宮
日本建国の父、神武天皇から数えて十代、崇神天皇の御代に、国が大変混乱したと伝えられています。
疫病によって国民が数多く死亡したり、反乱がおきたりして、国内が騒然としました。
天皇は、国民の幸せと国家の安寧を祈る大祭司であり、御信仰の非常に深い御方ですから、大変苦しまれました。
これは、神様を汚すところがあったのではないかと、祈り、崇神天皇は神の声を聞かれます。
このことは、我が国の政治がまさに「神主主義」、神様中心であったことを物語ります。
祈りを中心として、天の声を聞き、それに従い国を治めてゆく神国の姿がそこにあります。
人が選んだ王ではない、神代の継承者としての神国日本の君、天皇の御存在の意義を改めてかみしめるのです。
国が乱れたり、災害に襲われ多くの犠牲者が出た時、天皇は御自分の不徳のせいだと天に詫びて祈られるのだと、お聞きしたことがあります。
そして、崇神天皇は、宮殿の中に天照大神をお祀りしていたことを勿体ないことと気づかされ、大和の笠縫村にお遷りいただき、三種の神器のうち鏡と剣をそこに奉安するのです。
また、皇女、豊鍬入姫を御杖代として祀らしめられました。
それが、斎王の始まりでもありました。
笠縫で三十二年間、その後丹波に移り、今の籠神社のある地で四年間祀られました。
高齢になり御杖代としてのお役を果たせなくなった豊鍬入姫は、かねてから後継者として薫育してきた十一歳の倭姫にその役目を引き継ぎました。
倭姫は、諸国を訪ね、大宮処にふさわしいところを御巡幸されたのでした。
二十六の地名が記されており、各地は元伊勢と呼ばれて今日に至っています。
垂仁天皇の十二年、伊勢の五十鈴川のほとりにたどり着いた倭姫にとうとう天照大神からの御声がかかるのです。
「この神風の伊勢の国は、常世の浪が重なり返し寄せる国である。
傍国の美し国である。この国に永久に住もうと思う」と。
そこで、倭姫はここを永久の大宮処と定め、天照大神を御祀りしたのでした。
そして天照大神さまが、生きておわしますごとく、朝な夕な御食事をご用意し御供えし、祈りを捧げてきたのです。
それが、ヤマト人の信仰の根幹、伊勢の大神宮の始まりであり、二千年の祈りが今なお絶えず続けられている生きた宮なのであります。