神の声
朝五時半に家を出ると、外はまだ真っ暗です。
空には星が綺麗です。
白い息を吐いて、手袋をつけて 4キロの道をマクヤまで歩きます。
少しずつ速くなって、40分を切るようになりました。
そして、詩篇、旧約聖書、新約聖書を読み、祈り戻ってきて日常が始まります。
歩き始めたのは去年の暮れからですが、早天祈祷は二年になります。
聖書を全部通読できたら素敵だと思っていたら、そんなふうに導かれているようです。
聖書には多くの「預言者」が出てきます。
イザヤ、エリヤ、エリシャ、エゼキエル、ホセア、ヨエル・・・いま、アモスの預言を読んでいます。
神様の声というのは、人に耳に聞こえるようなものではないようです。
しかし、魂が神様とつながり、神様の喜ばれる生き方をしている人は、神様のメッセージを預かることができるのでしょう。
先のことを予測するのが予言ではなく、大いなる創造者からのメッセージを預かる預言。
聖書の預言者は、ことごとく迫害されて、挙句の果てに殺されます。
そんな聖書の話は、今の時代となんら変わらないのでしょう。
人は、進歩しているように見えて、罪深く、悩みや苦しみから救われたいという願いの中に留まったまま。
解放され、真の自由の光の中を歩きたいと祈っているのでしょうか。
明け方、鮮やかな夢を見ました。
7年前に死んだ父が機嫌よく座って、こっちを向いています。
話しかけても返事はありませんが、とても機嫌よく笑っていて、懐かしくて涙が出そうでした。
そのままそこにいたかったのですが・・・
気がついたら、目が覚めました。
「俺は神様なんか信じない。
信じられるのは、自分だけだ」と言う人がいます。
しかし、人は夜眠る時、明日の朝、目が覚めることを信じています。
でなければ眠れませんね。
「私、人って信じられないのよね、何を考えてるのか分からないじゃない」って言うじゃない。
でも、ホントに人を信じられなかったら、駅のホームで一番前に立つなんてできないでしょ。
後ろの人が自分を押すはずがないって信じてるか立てるのであって・・・
とにかく、自分が信じようが信じまいが、「信じられている」というのが先のようです。
ですから、祈るまえに「祈られている」ことに気づくのが信仰の始まりと思えます。
目が覚めるのは、「今日一日生きて、体験してごらんなさい。 肉をもって喜んで」
という神様の声なのかも知れません。
きっといつか、目が覚めない朝が来るのですから。