なむあみだぶつ
朝目を覚ますと、外は真っ白な雪の世界でした。
ワシの町、津に雪が降るなどということは冬の間に数回ちらちら・・・
ましてや積もるなどということは一度あるかないか・・・
歩くのはお休みして、新聞を読んでいると
大好きな五木寛之さんの「親鸞」完結編も197かい目になりました。
弟子の唯円は、師匠の親鸞に
「師匠の仰ることなら、命に代えて何でもやる」と言います。
すると、親鸞は唯円に 「人を千人殺せ」と言うのです。
そうすれば、往生は間違いないとしたらどうすると、親鸞は迫ります。
「無理です、自分の器量では人一人殺すこともできそうもありません。ましてや千人など・・・」
どんなことでも命に代えてもやると言ったではないかと言う親鸞に、からかっているのですかという唯円。
からかってなどいない、何でも従うと自信たっぷりに答えたから尋ねている。
わたしがそうせよと言ったら、千人殺せるのか?
唯円は「できません」と首を振ります。
そして、親鸞は唯円にこう言うのです。
「人一人も殺せぬというのは、そなたが善き心の持ち主だからではない。
人は自分の思うままにふるまうことはできぬのだ。
人はみずからの計らいをこえた大きな力によって左右されることがある。
こうしようと願ってそうできるとか、ああはしまいと決めて避けられるとかいうものではない。
絶対にこれだけはやめようと誓いつつも、そこへ入り込むこともある。
だから、善人・悪人などと人を簡単に分けて考えてはならぬ。
そなたとて、人を殺すなど決してしまいと思っていても、本当はわからないのだ。
いつ人殺しをするかもしれない。
それを業のせいである、という。
しかし、業とは、世間で言う宿命ではない。結果には必ず原因がある、ということだ。
人は決してわが計らうままには生きられない。
その願うとおりにならないことを、業を背負っているというのだよ。
そなたも、わたしも、大きな業をせおって生きておる。
そのおそれと不安の中にさしてくる光を、他力、という。
救われる、というのは、そういうことではないか。 わたしは、そう感じているのだ」
他力・・・絶対他力・・・・・主に任せよ
きっといつの日か、そんな安心立命の世界に入れられたいと願いつつ、窓の外の雪を見る日曜の午後です。