二宮金次郎
今野華都子先生の「古事記勉強会」に出ましたら、宿題が出ました。
二宮尊徳と乃木大将について調べてくること。
昔は、どこの小学校の校庭にも薪を背負い、本を読んでいる二宮金次郎の像がありましたね。
いまでも田舎でたまにお目にかかります。
日本人なら誰でも知っていた偉人なのに、いまはもう誰も知りません。
名前は知っていても、どこで何をした人か答えることができなくなっています。
「偉人にふれて、その生き方に学びなさい」 今野先生は言われます。
天明7年、(1788年)相模の国に生まれ(今の小田原市)どん底の生活から立ちあがり、
生涯で6百あまりの村を復興させたのが二宮金次郎(のちの尊徳)でした。
両親は、困った人を見ると自分のことを顧みずお金を貸したりして、家は貧しくなります。
尊徳5歳のとき、洪水で田畑全部を失います。
一家は極貧生活となりますが、その中で3人の子供を養った両親の恩を、尊徳、生涯忘れません。
尊徳12歳、過労で倒れた父のため、夜は草鞋を編み、昼は山で芝を刈って薪として売りました。
芝刈りの山まで片道2時間歩く道中、向学心高く本を読む姿が銅像になっているのですね。
尊徳14歳で父を亡くし、16歳で母を亡くし、孤児となり叔父に養われます。
叔父は、尊徳が夜読書をしていると、灯油代がもったいないと咎められたため、
土手に菜種をまいて、灯油を造って勉学しました。
また、村民が捨てた苗を拾い集めて空き地に植え、米1俵収穫しています。
尊徳17歳、この世で恵まれないと思われた自分にも天と地と人の恵みによって生かされているということを体感し、
「積小為大」小さなことを積み上げて、大きなことを為すという自然の道を悟るのです。
尊徳の天性の思いやりは、両親に似て、自分は楽でなくても堤防修理の日当をためては村の困った人に恵むのを楽しみとしていたそうです。
尊徳20歳、4年かけて砂で埋もれた1町4反の田畑を復興し、家も修復しました。
26歳から29歳まで小田原藩家老に仕え、32歳から35歳までの4年間で奉公人に質素倹約の指示をするなど、
数百両の借金を返済したうえ、三百両の貯金を生みだします。
家老にもらった百両の褒美は、苦労に耐えた奉公人に分け与えています。
生涯に六百余の村を復興させた尊徳ですが、その村に移り住み神社と寺を修復するところから始めるのです。
経済を立て直すのに、そんなもの関係ないと思えますが、尊徳は、
「神とご先祖のご加護がなければ経済の復興もあり得ない。何ごとも人々が神やご先祖を敬い尊ぶことから始まる」と心得ていました。
また、百姓あがりの尊徳に倹約を強いられた藩士の中には、強く反発する者もあったそうです。
そんな中で、断食祈願に入った尊徳43歳。
そのとき 「至誠を尽くしても、してやったという心があれば、それは至誠ではない。
誠を尽くして、それを報恩と思えば徳となる」と、そして「自分を捨てよ、そのあとはみんな一つの心なりけり」という
自他一如、万物一体の境地に達するのです。
亡くなる前、1銭の財産も残さなかった尊徳が残した和歌です。
「この秋は 雨か嵐か 知らねども 今日の勤めに 田の草をとる」
「天地の 神と皇との 恵みにて 世を安く経る 徳に報えや」
伝記は、物語として心に刻まなければいけませんな。
美しい日本人のことを、子供たちに伝えるのは大人の務めですね。