赤塚高仁ブログ

世界の鬼太鼓座

2014.07.27

  29歳の時ですから、いまから26年も前のことでした。

太鼓というものの概念が、根っこからひっくり返されました。
初めて観た後、カラダの震えが止まりませんでした。
今から45年前に、佐渡島で誕生した和太鼓のプロチーム鬼太鼓座です。
魂が鷲摑みにされました。
鬼太鼓座のマネージャーをしていた吉村信介さんと友達になりました。
鬼太鼓座を愛し、世界に広めようとしておられた一人の科学者が東京にあり、その先生に会いにゆく吉村信介さんについて行ったのが、人生の大転換となりました。
その先生こそ、我が生涯の師となる糸川英夫博士だったのです。
鬼太鼓座なければ、今日の私はありません。
      やがて、鬼太鼓座はアメリカに渡り、三年間かけて全米大陸をマラソンで一周するのです。 
ニューヨークマラソンにも出場しました。、速い者は二時間半でゴールイン。
そのあとゴール地点で二時間も太鼓を叩き続けたのが、世界に衝撃を与えます。
そりゃそうでしょう、42.195キロを完走し、そのまま2時間太鼓を打ち続けるなんて。
しかも、あのアメリカ合衆国を一周、マラソンで走り抜けたのですから。
 実は、鬼太鼓座を創った田耕(でんたがやす)さんは、東京の大空襲で友達をたくさん失いました。
逃げ場がないように焼夷弾を落とされ、周りから火で追い込まれ、米国に焼き殺されました。
許せない思いで生きてきた田さん。
でも、戦争はいけない、争いはダメだ、だから芸能で人を幸せにしよう。
若者たち佐渡に集まれ!! と発信したのでした。
田さんの仲間、五木寛之さん、永六介さん、井上ひさしさんが必死で声をかけてくださいました。
佐渡で共同生活をし、始まった和太鼓のプロ集団・・・それが、鬼太鼓座です。
のちに、佐渡から離れる田さんは「鬼太鼓座」の名前を持って全国を風のように飛び回り、残った創業メンバーは佐渡に根を下ろし「鼓童」を名乗ります。
田さんの想いは、大東亜の戦争で日本に酷いことをした米国にリベンジをすること。
でも、武力はいけないから、音の爆弾で米国をやっつける!!
3年かけて、太鼓の音の爆弾で全米を包囲、そして、エンパイアステートビルの屋上で勝利宣言。
カーネギーホールにも何度も出ました。
米国の人々も、絶賛、ヤマトの誇り、 それが鬼太鼓座なのです。
 
 わが師、糸川英夫博士は、「日本が世界に発信できる光があるとしたら、それは鬼太鼓座だ」と言いました。
だから、私も一所懸命鬼太鼓座を応援してきました。
彼らが、米国に出発するときに、少しでも経済的なサポートがしたくて、津で演奏会を催しました。
古い文化会館でしたが、1000名のキャパです。
3000円のチケット、1000枚で300万円の売り上げ。 経費引いた全額を彼らに餞別としたくて、毎晩切符を売り歩きました。
名前も知らない太鼓のチームに、プレイガイドで買ってくれる人はほとんどありません。
ほぼ全部手売りでした。 
300万円の金額よりも、3000円が1000枚という重みを知りましたね。
あの日、舞台が始まって 最初の太鼓の音が鳴った瞬間、へなへなと倒れ込みました。
よくもまあ、会場、満席になったものです。
それが、三重県文化会館最後のイベントとなったのも奇しきご縁でした。
 
 あの頃のメンバーは、鬼太鼓座を離れ、独立したり、米国で太鼓教室を経営したり、ハワイで実業家として成功したり、それぞれの場所で輝き続けています。
なんだか、兄弟のような、家族のような、そんな関係にさせていただいています。
昨日は、何年かぶりに愛知県に公演にやってきた鬼太鼓座に会いに行ってきました。
当時を知ってるメンバーは3人だけとなってしまいましたが、いまでも田さんの遺伝子を抱きしめ、大切な想いを伝え続けてくれています。
志の継承、それが何より嬉しいことでした。
 
風のように走る、鬼たち。
やまとこころを太鼓に込めて叩き続ける勇士の姿を、魂で受けとめて欲しいのです。
私の生涯の恩人、鬼太鼓座を知ってください。
きっと、天から糸川博士もそう願っているに違いありません。
 
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